はっちゃんZのブログ小説

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14.霊査6(古代日本の歴史)(第8章:占い死)

祖父の狐派頭首との情報交換の中で
古代の日本の歴史と宍戸家の過去についての情報が明らかになった。
日本書記や古事記には記載されていないが、
丹波篠山地方や交流のあった地方の風土記や歴史書の中から明らかになった。
宍戸家は、元々古代からこの丹波篠山地域を支配する豪族の本家であり、
この一族は、この地の神『シシトー神』を信奉していると記されている。
その一族は、古くは日本書記にも出てくる『土蜘蛛一族』と呼ばれ、
関西地方でも大きな勢力で戦闘力も強く大和政権へ恭順しない勢力として、
政権内で非常に恐れられており、
政権にとって卑しい神を信奉する一族として憎まれ『土蜘蛛』と蔑称された。
宍戸家はこの『土蜘蛛一族』と深い関係があった。

ここからは夢見術を使う女子中学生である夢花の母親の夢代が、
一族の者から強力な護りを受けながら、
強力な結界の張られた宍戸家本家の墓に強く残る念に潜った情報である。
この地の豪族の長である宍戸一族へ迎え入れられた若き親王の名前は『北星親王』。
彼は『次の帝』の声も高く多くの貴族からの人気も高かった。
常に都やその周辺を見回り朝早くから夜まで働く民に声を掛け励まして
民に困ったことがあればそれを聞き取り何とかしようとそれに応えた。
彼は民の帝への尊敬を高めるべく多くの民の幸福のために日夜政務に勤しんだ。
民を始め宮中の多くの女性が恋焦がれ彼との逢瀬を夢見て噂しあった。
帝も優しく真面目な彼を信頼し重要で高い官位を与え経験を積ませた。
その帝には正妻よりも深く愛する若い側室がいた。
その側室の部屋が北の間にあったため、『|七星《ななほし》の君』と呼ばれた。
偶然、『北星親王』は皇居の庭でこの世の物とも思えぬ色彩の揚羽蝶を見つけた。
その揚羽蝶がフワフワと羽搏き彼の目の前を横切る。
彼はその揚羽蝶に惹き込まれついついその後を追いかけてしまう。
その日は酷く暑い日で御簾を少し開けて涼んでいた『|七星《ななほし》の君』。
その前を『北星親王』が通りがかり彼女の可憐な姿を見てしまう。
当時高貴なる女性はその姿を夫以外の人間に見せることはしなかったため、
姿を見られた『|七星《ななほし》の君』は大層に慌てて御簾を上げようとしたが
慌てたため、御簾そのものを地面に落としてしまう。
『北星親王』は、慌てて顔を扇で隠す『|七星《ななほし》の君』へ近づき、
彼女の方を見ない様にしながら、にこやかにそっとその御簾を元に戻してその場を離れた。
彼は『|七星《ななほし》の君』が帝の側室であるとも知らずその美しさに驚いた。
運の悪い事にその場を帝の正妻の『向日葵の君』の従者が見てしまう。
すぐに従者から『向日葵の君』へ伝えられ、最近とんと顔を見せぬ帝を悲しみ、
帝の寵愛を一身に受ける『|七星《ななほし》の君』を憎んだ。
『向日葵の君』は、『北星親王』を常に嫌っている弟の『物見親王』へこの事を伝える。
『物見親王』は次の権力の座に付こうと考えていたから『北星親王』が邪魔だった。
やがて宮中で
「北星親王と七星の君が、深い仲のようだ」
「北星親王は、七星の君だけでなく帝の地位も奪い取るつもりらしい」
と噂され始め、七星の君とは別の側室から帝の耳に入った。
帝は、その噂を聞いてショックを受けて強く七星の君に問い詰めた。
彼女は暑い折につい御簾を落として北星親王に顔を見られた事を白状した。
ちょうどその時、七星の君が懐妊した時期で帝は誰が父親なのかを疑った。
帝はすぐに北星親王を呼び出し、七星の君のことで強く非難した。
寝耳に水の北星親王は驚き釈明をしようにも、
非難される理由も帝が愛する七星の君が誰かもわからなかった。
北星親王が、一瞬言い淀んだ瞬間を帝は『誠の事』と判断した。
それからは北星親王は謀反の罪で官位も剥奪され蟄居を命じられ、
やがて妻や子供は殺され一族郎党も全て行方がわからなくなり、
風の噂では七星の君も行方知らずとなっているようだ。
従者一人だけで丹波篠山の宍戸家の支配地への流罪を命じられた。

丹波篠山で幽閉された北星親王は、宍戸一族の娘を妻としたが、
帝へは『誤解である旨』『無実である旨』『七星の君の顔も知らない事』
を何度も必死で手紙を送ったが疑心暗鬼に染まっている帝は信じなかった。
それも墨汁に自らの血を滴らせて自らの強い思いを込め送ったが一切返信は無かった。
やがて全国的に数年に渡る凶作が起こり、
国中に疫病が流行り始めると帝は天の意思として退位して次の帝へ変わった。
それから長い時が過ぎ、都において北星新王のことは忘れ去られていった。
その頃から北星親王は、宍戸一族の神であるシシトー神に祈り始めた。
『我が身をもう一度この国の政治の只中に置かせてほしい』
『新しい帝としてこの国を支配させてほしい』
『私をこの様にしたこの国そして帝を許しはしない』
そしてある夜北星親王は失意と悲しみの中で
シシトー神の象徴である北極星に祈りを捧げながら
シシトー神の墓石の前で自らの心臓を抉り取り、
小さな石の箱に流れた血で真っ赤に染まった心臓を収めたまま事切れていた。
その夜は都では夏にも関わらず急に強い寒気が降り雪が降った。
都の貴族や民は驚きながらも白い息を吐き空を見上げる。
北極星から撃ち放たれた様に見える真っ赤な流れ星が丹波篠山の地の方向へ流れた。
それを見た全ての人間が理由なく身体に震えが走りその星に『凶兆』を感じた。
その時を境に国や都の中に奇病が流行り始め、
北星親王を陥れた上皇や政敵のすべてが、
突然胸が痛くなって死んだり、半身が痺れて動けなくなり死んでいった。
陰陽師にも頼んだが、あまりにその祟りが強く祓う事も出来なかった。
いつまでもその奇病が止むことがないため、
宍戸家ではシシトー神へ祈りを捧げた結果、
奇病の原因が北星親王の深い悲しみと怒りであることが告げられた。
それ以降、宍戸家では北星親王の深い悲しみと怒りを抑えるために
定期的に罪人や新鮮な獣の心臓が墓前に供えられるようになった。
現在、鷹がマンションの上に祠を作りその墓前で石の箱を備え付けている。
遼真はきっと定期的に心臓が備えられているのだろうと考えた。

さてここで出てくる『土蜘蛛一族』に関してであるが、
日本書記や古事記の神話と言われる時代以前から生きている一族である。
ある研究者の話では
神話時代の日本の国は中国大陸の東海海上に2つの大きな島として分かれていた。
それら二つの島は、
現在の日本の本州のフォッサマグナの位置で左右に分かれた島と考えられている。
地図上の東側の大きな島は、
現在のフォッサマグナより北側の本州部分が繋がった形であり、
その島の伸びる方向は現在と殆ど変わらないが、
現在より緯度は低く南の海上にあってとても暖かかった。
そしてこの時代の北海道はまだ日高山脈の元となる島が出来たばかりだった。
次にもう一つの西側の島は、九州部分を北にして南北に立っており、
その大きさは九州、四国、中国地方及び関西地方が一つの島となっており、
当時は現在の関門海峡も瀬戸内海も無くそれらは太い川の様なもので、
邪馬台国と言われた国はこの島に存在したと言われている。

またそれよりももっと古い時代の日本は現在よりも多くの島で構成されており、
中国大陸の東海海上にて東西に散らばり移動していたと言う話は、
「鳴き砂」と呼ばれる砂の研究からも類推できる。
この砂は主に白亜紀ジュラ紀第三紀の地層を背景に持つ砂浜に形成される。
白亜紀の代表的な場所は、日本海側では「鳥取県青谷浜」、
太平洋側ではジュラ紀の「宮城県牡鹿半島」、第三紀も同じく同県宮戸島の砂浜で
これらは内湾性の砂浜であり、その砂の主な構成鉱物は石英や長石である。
この砂は日本海特有の常時吹き付ける強い風の影響で出来ると言われていて、
砂粒が強い北風による波に何度も洗われ、その角が取れ表面がツルツルに磨かれ
その砂浜を踏めば”キュッキュッ”と泣く様に鳴る特殊な砂である。
その分布を調べた研究家の論文からは、その生成過程から考えて、
現在の日本の日本海からしか発見できない砂である筈なのに、
不思議な事にその砂浜が現在の西日本の太平洋側からも発見されているだった。
そこからフォッサマグナやプレートの方向を考えて、
現在「鳴き砂」の太平洋側であった場所は、
当時は日本海側で常時北風に洗われていた場所に存在したのではないかと考えられた。

また明治時代から現在まで邪馬台国の場所の論争の元となっている
魏志倭人伝”の記述(距離と方向の違い)についても
西側の島がこの形の島ならば”魏志倭人伝”の記述通りの方向と距離で
関西地方にある邪馬台国へと到着するとある研究者は話している。
また九州のある地名で昔から東西南北が他の場所と異なる場所があり、
それは90度時計回りに回せば東西南北が正常化するところからも類推できる。
この現在とは異なる立地ゆえに戦乱に乱れる中国大陸の大国魏の遠交近攻の戦略(遠くの国と親しく外交し、近くの国を両者で挟み撃ちにして攻め、領土にしようとする外交・軍事戦略)により西側の島にある邪馬台国への魏からの友好の要望があり金印が贈られたわけである。その金印は魏から邪馬台国へ贈る移動中に他部族との戦闘が起こり紛失していたが、その後、江戸時代となり九州にある志賀島で作業中の農夫が見つけた。

実はアマテラスの支配する『高天原』と言われる土地は、
神話や中国大陸内などではなく東側の島の現在で言えば関東地方にあった。
これは関東地方の貝塚や遺跡及び香取神宮鹿島神宮の御祭神を見れば
その歴史の古さや出雲神話に出てくる神様であることからも明らかである。
古代より東側の島の関東地域に大きな勢力を張るアマテラス一族としては、
当時、邪馬台国のヒミコが率いる連合国の本拠地である、
西側の島の南側へ攻め入り統一しようとしたが出雲族の邪魔もありうまく行かなかった。
そんな時、原因はわからないが、突然地震が起き大地が大きく動き始めた。
地球規模で見ると太平洋プレートやフィリピンプレートが大きく動き始め、
何と高天原のある東側の島は北上し始め、西側の島が反時計回りに回り始め、
現在のフォッサマグナの形成された部分へ衝突した。
その衝撃で東西の島の海岸部だった部分や海底は盛り上がり高い山脈となり、
とうとう東西二つの島は繋がり現在の日本国の様な形となった。

自ら反時計回りに移動し東側の島の東岸とぶつかった衝撃を
直接被った近畿地方で栄えていた邪馬台国やその周辺の連合国は、
多くの人間が死に疫病も流行り気候も変わり飢饉が起こり
せっかく纏まったはずの邪馬台国連合内は千地に乱れた。
しかし寿命を終えて亡くなったヒミコに後に
新女王としてついたトヨの時代になってやっと連合国にも落ち着きを見せ始めた。
ただ人々は疲弊しており生きていくのに精一杯の日々だった。
そこで高天原の長アマテラスは、
多くの船を作り当時発展していた近海航海技術を利用し、千島海流を利用し、
当時あまり大きな勢力の無い九州の地“高千穂”へ孫のニニギを降臨させた。
ニニギ軍は時間を掛けてその地の小さな勢力を平定し支配地を大きくし、
常にアマテラスから支援を受け、やがてニニギの息子のジンムの時代となる。
元の邪馬台国のあった場所は、またもや群雄割拠の地となり、
邪馬台国はもう小国家としてトヨの血脈を維持しているだけの国となっていた。
九州地方ではもう南部のハヤトを除きジンムの敵対勢力はいなくなり、
勢力として十分に大きくなったと判断したジンム軍は東征を開始した。
ジンム軍は北九州より山口県へ上陸し
瀬戸内海側の街道を進み各地を平定し更に勢力を大きくしていった。
しかし現在の関西地方手前に来た時、その進行は止まった。
この地は『土蜘蛛一族』の支配下であり、多くの兵力もあり、
ジンム軍への抵抗も強く勝つことも出来ず、挙句に将軍までもが討たれてしまう。
『太陽に向かって戦ったから負けたのだから今度は太陽を背にして戦う』として
ジンム側は軍の多くを現在の紀伊半島側へ移動させその地から太陽を背に行軍させ、
紀伊半島の旧邪馬台国勢力や反土蜘蛛の勢力と手を結びながら再度戦いを挑んだ。
両軍ともに被害者も多く、なかなか決着が着かなかった。
そんな時、古代より土蜘蛛一族と戦いを続けていた山陰地方の強大な出雲族へ、
アマテラスが軍神と言われるタケミカズチを派遣しアマテラスへ恭順を示させ、
出雲族の一部の勢力を使い土蜘蛛一族の支配する関西地方へ攻めてさせた。
東西から挟み撃ちを受けた土蜘蛛一族は戦力を裂かれ各地で敗走し、
最後は父祖の地である丹波篠山で徹底抗戦をして立て籠もった。
その後、ジンムより『土蜘蛛一族』へ土地支配を条件として
アマテラス・ジンムへの恭順を示す様に言われ従う事となった。
長い戦いの末ジンムは、この近畿地方にやっと大和政権を樹立した。
しかしまだまだ各地には強い豪族が乱立しており、その力も拮抗しており、
いつ支配をめぐる戦いが起こるかわからない状況であった。
また中国大陸も魏など覇権を争う動乱の最中で、
朝鮮半島の支配など覇権を考える魏などの国は日本へ支援を要請してきた。
ジンム即ち大和政権は、現在の日本が小さな一族の集まりで
個々の力では対抗できないことを理解し、国全体としての力を強くするため、
各地の豪族に元々の支配地域の支配権を与えながら、
連合国の首長として、大和政権が国交や様々な決定権を持ち、
合議制という名目で絶対的権力者のいないようなあやふやな体制で政権を維持し、
九州地方、中国地方、関西地方を始めとした広い地域をゆるく支配した。
一応政権を安定させた大和政権側も他の部族も
国としての弱みを見せる事となるこれ以上の戦いは理が無いと考えた。