はっちゃんZのブログ小説

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82.転勤の打診

8月最終日の業務も終わった時間、慎一は支店長から食事へ誘われる。
この支店長は、慎一と同じ旧銀行、関西中央銀行出身の3年先輩である。
慎一の最初の教育係でもあって、慎一の実力を買って札幌に呼んだのも彼であった。
そして慎一はその信頼に十分に応えて、新規先をどんどん開拓し、
その企業の方向性や特徴に合わせた投資をして全ての企業の収益を改善させている。

支店長が案内したのは、慎一もよく使う店で
札幌市中央区南三条西6丁目 狸小路市場内にある「鮨 しもくら」だった。
ここは店の向かいにある魚屋「下倉孝商店」が厳選した旬の食材を提供している寿司屋である。
カウンター5席と二階の部屋のみの店であるが、落ち着いており非常に雰囲気も良い。
特に昼間に提供される1000円とリーズナブルな値段の海鮮丼(アラ汁付)はお勧めである。
慎一は昼飯をたまにここで取っており、
季節季節の旬の食材が色とりどりに飾られた海鮮丼は好きだった。
ここで有名な青森の大間のマグロの味を
完全に覚えることができたので家族でも来たいと思っていた。

支店長と二人でカウンターに座り、先ずはビールを頼んだ。
しばらくして支店長から関東圏への転勤を打診された。
『そろそろ3年目でもあり転勤の可能性は高い』と夫婦で話し合っていたところだった。
銀行としては、今度は関東圏への進出を狙い、先ずは横浜にある都市銀行と提携して、
来春に融資専用として横浜市みなとみらい支店を進出させる予定らしい。
そこの融資のトップをやらないかとの話と
来春新入社員で入ってくる慎一の娘の美波も神奈川県へ配属させたいとの話だった。
支店長も同年代の娘を持つ身で、身の回りが心配で近くに置かせたいとのことだった。
慎一は転勤を受ける旨を受諾し、美波の事は人事部に任せることとした。

二人の話が終わる頃、カウンター内の店主が、
海水と酸素で丸く膨らませたビニール袋に入ったヤリイカを見せた。
そのヤリイカは、まだ生きていて半透明の身体でヒレを細かく動かしている。
「これは、箱館直送の朝採れのヤリイカです。
ただいまより、これを捌きますね。お楽しみに」
イカが大好物の慎一は目を輝かせた。
目の前で店主が新鮮なイカを捌き始める。
小さい吸盤をつけた足は、クネクネと動かしており、
よく見ると吸盤一つ一つもまな板へ吸い付いては離れるを繰り替えしている。

やがて二人の前に「ヤリイカの造り」が並べられた。
箸に挟まれた透き通った身がカウンターの照明で光っている。
最初は薬味無しの醤油をつけて・・・
そしてそっと口へ・・・
弾力もありながらのそのコリコリとした食感・・・
しばらく噛んでいると口中にイカ特有の甘味が広がってくる。
最初の薬味は生姜にした。
生姜の香りと辛さで新鮮なイカの甘さだけが口中に広がっている。
次は半透明の生ゲソを挟む。
皿に吸盤が吸い付き抵抗してくる。
箸の先でまだ生きているゲソがクネクネと巻き付いて来る。
これも醤油と生姜で食べる。
舌の上をゲソが動いて舌に吸盤を吸い付けてくる。
ゲソは歯の中で抵抗していたが、
嚙み始めると胴体とは異なりやや濃い甘みが広がってくる。

ここまで来ると二人は冷酒を頼んで飲み始める。
今日は、純米大吟醸織田信長」が入っているらしい。
このお酒は岐阜にある日本泉酒造が仕込んでいるお酒で、日本酒造りにおいて最高の原料米と言われる山田錦を35%まで精白し、もろみを通常より低温で長時間発酵させたこだわりの逸品。味わいは洗練されたスッキリとした辛口、華やかな吟醸香で冷やか常温で飲むのが良いと言われている。
一口飲むと口中のイカの甘みが消えて、柔らかでありながらすっきりとした味わいが広がる。
旧銀行同士という事もあり二人で昔の懐かしい話に盛り上がり、
慎一の米子や京都での仕事ぶりや記憶喪失事件でも花が咲いた。
そのおかげで現在の妻である静香と一緒になれた様なものなのだ伝えると、
「本当にいつまでも仲のよいことで、ご馳走様」と言われている。

帰宅すると風呂へ入り、いつもの様に熱帯魚水槽をじっと見る。
大きな水槽内で横たわる焦げ茶色の流木に乗っているアルビナスナナの緑と
軽く細かく赤いボトムサンドの底砂が明るい照明に照らされている。
水面直下ではゴールデンドワーフグラミーが糸の様な胸鰭を突き合いしており、
数匹のネオンテトラ水草の上あたりで集まって泳いでいる。
そこから赤い底砂へ視線を落とす。
底砂の上では5センチくらいの成魚のコリドラスパンダが並んでおり、
その周りを最近孵化した数匹の小さなコリドラスパンダの子供が泳ぎ回っている。
その子達は、孵化当初こそ数ミリの長さで細く黒く小さく、
もし動かなければゴミと間違ってスポイトで吸い取って捨ててしまいそうな位だった。
その子達も1か月も経つと1センチ位に育ち、もう大人と同じ模様となってきている。
毎日の様に大きくなるその子達の成長を見るのが楽しみだった。
このコリドラスという熱帯魚は、ナマズ目に分類される小型淡水熱帯魚である。
原産地は南米で、体長は成魚でも最大5cm前後で寿命は約2年から5年ほどである。
ナマズの仲間なため頭部が丸く大きめで口周りにヒゲがあり全体的にずんぐりとしている。
特に瞬きするコロッとした目と底砂に口を突っ込みもぞもぞ動かす様は子供達にも人気だった。
その他、水槽の底で一直線に列を作ったり、
みんなで横に並んで何かお話をしている様な様子や、
数匹で連なり水草の葉の中を潜り合ったり、水槽の壁に沿って上下したり、
水流の中で水草の葉の先にチョコンと乗ってバランス運動をしている姿などは
いつまで見ていても飽きなかった。

その夜、慎一は横浜への異動の話を静香にした。
「へえ、横浜ね。札幌もだけどよくドラマや映画にも出てくる都会ね。
 札幌も住むには最高の場所だから離れがたいけど、銀行族だから仕方ないわね。
 もしどうしてもというなら退職後に札幌に戻ってもいいわね」
「そうやな。空気も美味しいし食べ物も最高やし良い所やな。
 でも美波はどうやろ・・・。
 僕としては、子離れ出来てないと笑われるかもしれんが連れては行きたい。
 支店長も同じ年頃の娘がいるから心配らしい」
「その気持ちはわかるけど、美波の気持ちがねえ・・・」
「前田さんだったか?付き合ってるのは・・・」
「そう、でも本人はすぐに結婚とかは全く考えていないみたい。
 先ずはあなたの様にバリバリ仕事をしたいって張り切ってるわ」
慎一はふと自分が働き始めた時に毎日クタクタになるまで働いていて、
その時、学生時代から付き合っていた友美と別れた苦い思いが脳裏を過った。
自分の事は棚に上げて『もしかして彼も同じようだったら困るな』と思っていると
「まあそれとなく美波に聞いてみるけど、
 本当に好きなら離れていてもその気持ちは変わらないわよ。
 それにもし会いたかったら会えない訳じゃないでしょ?」
「それはそうだけど・・・」
ファザコンのあの子にとっては、遅いけど初恋みたいなモノだから。
 それに社会人と学生の付き合いって難しいと思うのよねえ」
「まあ僕としては美波に出来るなら悲しい思いはして欲しくないな」
「それはそうよ。まあもう少し時間はあるしね。
もうじき私に何か相談がありそうな気がしてるの」
「そうか・・・まあ、その時に考えるか・・・」
「そうね、おやすみなさい」