はっちゃんZのブログ小説

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30.湯呑

『今日はちょっと眠いなあ、久しぶりの休みやから外でコーヒーでも飲むか』

と考えてマンション前の喫茶店へ向かった。

美波ちゃんや静香さんからのメールを読みながら部屋を出た。

エレベーターよりも、たまには歩こうと考えて階段へ向かった。

 

慎一はこのまま京都での仕事がうまく行き始めて米子へ帰ることを考えた。

そして、米子へ戻った自分を想像してみた。

いつかきっと静香さんと結婚するであろうことは想像できた。

しかし、ここである事に気が付いた。

転勤族の慎一は同じ場所に3年と居ないのが普通で米子にずっといることはできない。

『山陰の人は地元から離れることを嫌うことが多い』と得意先からも聞いている。

仮に静香さんと結婚し転勤した場合、美波ちゃんは米子で1人になってしまう。

今までは2人だったから耐えてこられたことも多かったであろうことは感じている。

きっと美波ちゃんを1人にすることは静香さんも望まないだろう。

だからと言って慎一の頻繁な転勤に学生の美波ちゃんを連れて行くことはできない。

慎一は自分の幸せと彼女達の幸せの形が違っていることに気が付いた。

このまま行って一緒になっても3人は幸せになれないかも・・・

二人の笑顔が浮かんだ。

どうすれば・・・

ふと上を見上げた。

その時、二人の笑顔が歪んで視界がグラリと揺れた。

 

12月の最初の土曜日朝、静香はいつものように洗い物をしていた。

昨夜、彼からのメールで

『明日、久しぶりに休めそう。仕事がうまく行き始めた。良かった』

『それはおめでとう、ゆっくりと休んでね』

静香が鼻歌を歌いながら彼の笑顔を脳裏に描いた。

その時、食器棚の中から異音が聞こえた。

扉を開けてみると

出雲へのドライブの帰り松江で買った彼専用の『出西窯』の湯呑が割れている。

静香は嫌な予感がしたので彼へすぐにメールを打った。

いくら待ってもメールを返信されることはなかった。

 

その頃、慎一の実家へ病院からの連絡が入った。

頭蓋骨と左肩の骨折及び全身打撲。

現在、左肩骨折手術中だった。

慎一の両親と妹は京都の救急指定病院へ急いで向かった。

手術は5時間以上かかる大手術で

その日、慎一の意識は戻らなかった。

主治医から

幸いにも頭蓋骨は線状骨折とのことで、

画像所見上、今のところ脳組織へのダメージはない状況だが

しばらく経過観察が必要と言われている。

肩の骨は金属板と骨接合材のネジで固定されている。

 

顔や肩に包帯を巻かれ、手足に絆創膏を貼った慎一が眠っている。

枕元には画面が割れて機械部が破損している携帯電話が置かれている。

電源を入れてみたが全く作動しなかった。

その日は一度帰って、翌日の日曜日から母親が看病することとなった。

月曜日になっても眠ったままだった。

医師もそろそろ目を覚ましてもいいのですがねえと話している。

(つづく)

23.幼い兄妹(きょうだい)の依頼 3

趙の別荘の近くに一度停車して、サイドカーに格納しているドローンで偵察した。

別荘の壁は表面上木製で、実際は芯部分にセメントが入っている。

中にいる趙の部下は5名で、子供の姿がどこにも見つからなかった。

嫌な予感がしてドローンを赤外線モードに変えて

捜索範囲を広げたが掛からなかった。

樹海の中に熱源らしきものは見えるが、小動物のものしかなかった。

翔は、別荘へ忍び込み1人1人と捕縛していった。

両手両足を布ガムテープで縛り、目部分と口部分も布ガムテープを貼った。

3人までは順調だったが、残り2人で見つかってしまった。

そのうち1人は簡単に倒せたが、

両手に長い針らしき形状の武器を持つリーダーの男とは壮絶な戦いになった。

長い針を目の部分やバトルスーツの縫い目部分を狙ってくる。

いくらゴーグルが超硬質ガラスでも限界があるかもしれない。

男が両手で襲ってきた時にその両手を掴み、

巴投げの要領で片足を使い投げ捨てると同時に両手のツボを押さえ決めたまま、

空中にいる男の腹部に両脚をのせそのまま地面へと落ちた。

男は腹部に翔の体重が掛かった強烈な踏付けを喰らい、苦しみ転げまわっている。

そっと後頭部へ手刀を入れ気絶させた。

リーダーらしき男も同様にガムテープで処置し、

先に倒した1人の口は自由にしたまま、

子供達と牙という子供達のお父さんの行方を聞いた。

父親の方は、地下倉に幽閉し拷問したためもう死んでいるとのことだった。

ここで子供たちの父親の職業は『仕事人』であることが判明した。

趙に楯突く勢力のボスに対して秘書(仕事人)を使い長年殺してきているらしい。

子供は3日前にいなくなって見つかっていないらしい。

何も持っていないので死んでいるのではないかとのことだった。

 

別荘から出ると目の前に子供たちが立っていた。

声を掛けても返事が無い。

こちらに来いとでも言うようにフラフラと歩いていく。

二人についてくと30分も歩いた頃、木の根元に眠る子供たちを見つけた。

翔が急いで駆け寄り、脈を取ったが殆ど触れていない。

急いでサイドカーに二人を乗せて救急病院へ向かった。

脱水症状と低体温状態であった。

病院へ運び込み何とか二人は命を取り留めたが予断は許さない。

(つづく)

29.異動の朝

朝早く2階の客間で慎一は目覚めた。

台所からいつもの音が聞こえてくる。

下りていくと静香さんが忙しそうに二人分のお弁当を作っている。

「おはよう」

「あっ、おはようございます。今日は一日いい天気みたいです」

静香さんは慎一の方へ一瞬含羞(はにか)むような表情を浮かべ笑った。

顔つきが少し明るく見える。

慎一はほっとした。

少しすると美波ちゃんが下りてきた。

美波ちゃんは夏休みの仕上げとして他校との練習試合があるらしい。

今日は『この時計で絶対に勝つ』とはりきっている。

 

やがて3人のおだやかで楽しい朝食が始まった。

『ほかほかの仁多米』

『アラ汁』

『ダシ巻卵』

『鯵の一夜干しの焼き物』

『刻み野菜の浅漬け』

『岩のりの自家製佃煮』

普通の家の朝食風景。

本当にこの家の料理は美味しかった。

優しい味付けで身体の内から力が湧いてくる。

ふと慎一は早くも今晩からのご飯に味気無さを感じた。

 

試合は昼前からのため、慎一と同じような時間に家を出るようだ。

「男の人と一緒に出るなんて、なんかお父さんと一緒みたいでうれしい。

 お弁当も一緒だし、『お父さん、いってらっしゃい』ってね。

 じゃあ、いってきまーす。試合結果はメールで知らせるね」

「まあまあ、慌ただしい子ねえ。でも本当にうれしそう」

「ああそうやなあ、こんな感じなんよなあ。きっと家庭って」

「じゃあ、慎一さん、いってらっしゃい」

「うん、静香さん、いってきます。帰る時は必ず連絡するから」

「はい、待ってます。お気をつけて」

慎一は米子駅まで行き伯備線に乗り岡山へ向かった。

岡山から新幹線に乗り京都まで一本でドアツードアで4時間もすれば着いた。

新幹線の中で食べた静香さんのお弁当は本当に美味しかった。

冷たくなってもしっかりと味が付いており食べ終わるのが惜しかった。

空になった朱塗りのお弁当箱をハンカチに包み鞄に入れた。

15時に引越業者が来るので駅前の社宅に向かった。

その夜美波ちゃんから『今日も勝利、おじさんもきっと勝利』とメールが入っていた。

 

翌日、支店長へ挨拶に行くと

『君には期待している。是非とも我が支店をトップにしてくれ』との一言だった。

職場に顔を出し挨拶をしてチーム員と打ち合わせ、

またもや慌ただしい日々が始まった。

毎日多くの得意先への挨拶と資料の読み込み、資料持ち帰りの日々が続く。

たまに送られてくる美波ちゃんや静香さんのメールを

読む時だけが慎一の憩いのひとときだった。

 

慎一を呼んだ繊維会社の支店長は知らない人だった。

神戸支店で相当に実績を上げた人らしく、

慎一のことを支店で色々と聞いてきているため、何かにつけて直接連絡が入る。

『京都の商売が初めてで不安で一杯だが絶対成功させなければならない』と力説している。

それは慎一も同じだったが、

大切な会社なので何とか励ましながら夜討ち朝駆けで働いた。

慎一は新しい提案として『米子市の浜絣』を京都で紹介してみようと考えていた。

京都には浜絣を扱っている会社はなく、この会社だけが扱うことで

『普段着の絣生活』という感覚を京都市民へ紹介できるのではという骨子だった。

着物の本場である京都ではちょっとやそっとでは注目されない。

昔から京都とも関係のある山陰地方の一地方、米子の名産品は珍しいと考えた。

これがうまくいけば米子に早く帰れるかも・・・

 

土日も時間が出来れば、横になって寝ている日々が続く。

京都産の食材は美味しかったが、残念ながらさざなみに匹敵する小料理屋はなく

味付けも慎一には合わなかったため、味気なくご飯を詰め込んで帰る日々だった。

12月もまたもや人間的な生活をできる時間は全く無かった。

だが、慎一のチームのがんばりで融資課は徐々に成果があらわれつつあり、

繊維会社も少しずつうまく行き始めているとの連絡があって慎一もほっとしていた。

(つづく)

28.慎一の約束、静香の願い

美波ちゃんが二階へ上がってしばらくして、静香さんが風呂から上がってきた。

いつのまにか美波ちゃんの部屋からの音も消えている。

「あれっ?美波がいたのだと思いましたが」

「うん、少し話しておやすみなさいって上がっていったよ」

「そう、最近相当にクラブが厳しいみたいで疲れているのよね。

 今の時間にはもう眠ってしまっているの。大丈夫かしら」

「大丈夫、今度こそ優勝とか言ってるから待ってようよ」

「そうですね。しかしあの子はあなたといるようになって本当に明るくなりました」

「それは良かった。安心なオッサンだけでなかったんやなあ」

「それは違います。あなたは私達親子にとってとても大切な人ですよ」

「静香さん、こんな僕やのにそう言って貰ってありがとう、

 こんな風にして貰って何もお返しでけへんのが悲しいな」

「ううん、私達はたくさんの物を頂いてますからこれ以上は何もいりません」

 

ふと、二人の視線が絡み合った。

テレビがニュースを流しているが全く聞こえてこない。

どちらからともなく魅かれあうようにそっと寄り添った。

静香は慎一の肩に頬を寄せている。

静香の頬から細かい震えが伝わってくる。

慎一はその細い肩を抱き寄せた。

その肩の薄さが慎一に愛おしさを感じさせた。

しばらくそのままじっとしている。

 

「静香さんには悪いけど、旦那さんとは勝手に話をしたよ。

 あなたに代わって僕が静香さんを必ず幸せにするって」

静香の息を飲む音が聞こえてきた。

「だけど、今は美波ちゃんが心配やから、もう少し時間はかかると話したよ」

 静香の身体からこわばりが取れてきている。

「わたしのような女でいいの?後悔しないの?」

「静香さんやからこそ、

 あんなに可愛い美波ちゃんを育てた静香さんやから好きになったんやと思うよ」

「こんな気持ちになったのは初めてでどうしていいかわからないの」

「僕もこんな気持ちになったのは初めてで断られたらどうしようかと迷ってたんや。

 今回の転勤が無ければ、こんなことを言えなかったかもしれへんと思った」

「それは私も同じ、あなたと知り合って私は、

 今まで『美波と二人で一緒に』とすごく無理をしていた自分に気がついたの。

 でもあなたは転勤族だからいつかはいなくなる人と自分にずっと言い聞かせてたの」

「あのままなら美波ちゃんを傷つけたくないからきっとまだ言わなかったと思う。

 何と言っても、まだ多感な高校生だし時間が必要やから」

「私はあなたを本当に待ってていいの?信じていいの?」

「こちらこそ待ってて欲しい。必ず帰ってくるから、そして君と」

 

慎一は静香の頤(おとがい)を軽く上げた。

そっと閉じられた瞳に涙の跡がある。

「私に勇気を下さい。明日、朝、あなたを笑って送れるように」

慎一は静香の震える唇に唇を重ねた。

静香の両手は迷うように揺れていたが、やがて慎一の背中に回された。

慎一も静香も何もかも忘れたように重ねつづけた。

二人の愛情が激情からおだやかなものに変わった時、重ねた唇は離れた。

静香は慎一の胸に頬を預け、ずっと手を握り合ったまま時間が過ぎて行った。

(つづく)

22.幼い兄妹(きょうだい)の依頼 2

理恵子がシャワーを終えてスキンケアをしている。

しばらくすると電話が鳴った。

「はい、わかりました。もうすぐ伺います」

鏡台の椅子に座りながら子供の写真を見て泣いている。

おもむろに鏡台の引き出しから薬剤を出して含んだ。

そして部屋を出ていった。

 

ボスの趙に鞭で打たれながらセックスを強要されている。

「うちの人と子供たちは無事なんですか?いつ会えるの?お願いします」

「うーん、も少し待つ あるね」

「もう2週間も会えていないのです。お願いします」

「ははは、お前は子ともをうんたとは思えないくらいくあいいいね。

 お前のたんなのきぱ、いや孫には勿体ない女あるね。そうそうもっと鳴くよろし」

「お願いします。子供に・・・」

「しかし、おまえのたんな 許せないねえ、わたしのからた けかさせたね。

 地下て、反対かわになけられて いたかったあるね。許さないね」

「許して下さい。お願いします・・・」

「お前が もと私に奉仕したらすくに会わせる あるよ ははははは」

 

あまりにひどい話で百合に聞かせられないので概要をまとめるとこうなる。

理恵子さんは住み込みで働かされており薬剤(覚醒剤?)を服用している。

理恵子さんの夫は秘書の一人で通称『牙』と呼ばれている。

子供たちは2週間前からどこかに預けられており面会させて貰っていない。

趙はどうやらこの前の事件で地下道を逃げたボスであり、

その時警官と戦って趙を逃がした秘書は、理恵子さんの夫『牙』だというのだ。

その秘書『牙』も今はこの建物内にはいない状態だった。

子供たちの行方を探ることが急務と判断し、

ドローンに搭乗させているクモ大助を出動させ、ボスの部屋の外側に待機させた。

 

理恵子さんが部屋を出て行ったあと、趙はシャワーを浴びてベッドで眠っている。

携帯が鳴っている。

「何 ある?」

「ことも いなくなった? それはそうと きぱは しんたか?」

「ならいい。こともは放っておけぱいい。とうせ ふちのちゅかいたから死ぬあるね」

「おんなはこちらて処理するある。とうせくすりつけね」

『富士の樹海』と言われても非常に広過ぎて見当もつかなかった。

 

急いでRyokoに趙名義の建物を検索させた。

静岡県富士市から富士山へ向かうスカイライン途中の別荘がヒットした。

翔は、百合に事務所で状況を確認してもらうこととして急いで別荘へ向かった。

バトルバイクにサイドカーを付けて多くの道具も入れて発進した。

目的地まで約120キロ、

現段階でスピード違反をするわけにはいかないので法定速度上限ギリギリで走行した。

やがて目的地に近づいている表示がヘルメットに送られてくる。

理恵子さんは静かに眠っているようだ。

(つづく)

27.美波のがまん

夕食が終わり二人でゆっくりとお茶を飲んでいる。

静香さんが仏間に入っていき戻ってくる。

「慎一さん、美波が来る前だから二人の時の名前で呼びます。

 京都に行ってもがんばって下さいね。

 京都もこちら同様に苦労するところがあると聞きますので

 無理をしないで身体を大切にして下さい。

 疲れたらいつでもこちらに食べに戻ってきてくださいね。

 さざなみはいつでもあなたのために開けておきますので」

静香さんからは、

浜絣を使った青系と茶系の『手作りネクタイ』2本がテーブルの上に置かれた。

「私が愛用している浜絣を使ってみました。

 いい肌触りですから是非とも使ってください」

「ありがとう、これは驚いた。

 手作りネクタイは初めて。

 これは出社の日に締めます。

 大事に使わせて貰います」

 

しばらくして、美波ちゃんが下りてきた。

「お母さんは色々とできるからいいな。美波も必死で考えたよ」

美波ちゃんからは、三人が写った写真、

『テニス大会』と『花見』の時のものが裏表の状態で写真立てが作られている。

例の小物店で写真を封入したものを作ってもらったようだ。

にっこり笑う静香さんとひまわりのように明るく笑う美波ちゃんが写っている。

やはりこの笑顔が慎一の原動力であったことが再認識された。

 

しばらくして、慎一が『静香スペシャル』と『美波スペシャル』を作り始めた。

美波ちゃんがクッキーを焼いていたのでちょうど良かった。

二人はお互いのコーヒーを覗き込みながら

「美波スペシャルって、こんな感じなんだ・・・

 へえ、甘い物好きの美波にはちょうどね」

「そうよ、静香スペシャルだって・・・

 うーん、大人の感じがすごい、私にはまだまだ早いかも・・・」

「そうね、でもお母さんは美波スペシャルも好き」

「そんな、二つともなんてずるい。これは美波だけのもの」

「わかったわよ。だったら、これはお母さんだけのもの」

とワイワイ言い合っている。

慎一は二人の仲の良さが嬉しかった。

もう10数年、二人だけでこんな風にお互いをかばいあって生きてきたのだと思うと

羨ましくもあり、それが二人だけだったという寂しさも感じた。

 

慎一はこの7月に開始した「ショートメッセージサービス」のことを話題に出した。

二人は知らなかったようで早速加入するとの話になった。

アドレスを二人に教えて

「京都に行ったら、この連絡ができるから、電話が出れなくても安心やね」

「そうね、こんなものができたのねえ。昔は家電か公衆電話だけだったのに・・・」

「時代はドンドンと変わるということやなあ。

 もうじき写真やビデオも送れるようになったりしてなあ」

「おじさん、それはちょっと無理じゃない?

 でもそうなればいいなあ。美波が優勝した瞬間の写真を送れるから・・・」

「まあ、大胆なことを言う子ねえ。期待せずに待ってるわ」

「もう、すごくがんばってるんだから・・・」

「そうや、そうなったら楽しみやな。

 でも美波ちゃんが、精一杯がんばって納得できる結果だったらいいんちがう?」

「そう言ってくれるおじさんが大好き。うん、自分が納得する結果を出す。

 どちらにしろ、おじさんにはメッセージを送るね」

「うん、待ってるで。楽しみや。応援に行けんのは残念やけど許してな」

「ううん、おじさんは京都でがんばってると思って

 美波もがんばるから応援していてね」

「了解、毎日応援しておくで」

と大いに話が弾んで今後が楽しみだった。

遠くにいても近くで感じることができる時代が近づきつつある・・・

そんな予感を感じつつ二人を見ていた。

 

美波ちゃんが風呂に入り、続いて静香さんがお風呂に入った。

その時、美波ちゃんが涙ぐみながら

「おじさん、美波、今日はずっと我慢してたの。

 笑っておじさんを送りだすんだって。でももう無理。

 おじさん、今までありがとう。

 おかげで泳げるようになって嬉しかった。

 勉強もよくわかるようになって嬉しかった。

 この1年半、美波の一番好きなお父さんみたいですごく楽しかったです。

 美波は本当のお父さんの記憶がないので無理言ってばかりでごめんなさい」

「いや、おじさんも本当の娘みたいに感じてた。娘を持っていないのにね。

 二人とも同じやな。また帰って来た時は同じようにお願いするな」

「うん、必ず帰ってきてね。美波、待ってる」

「わかった。待っててな」

「お母さんには約束したから今話したことは内緒ね。じゃあおやすみなさい」

(つづき)

26.いつもの音

静香さんが朝早くから来て、まだ残る荷物のまとめと部屋の掃除をしている。

30日昼前に引越業者が来て昼過ぎには搬出し終わった。

部屋は引っ越してくる前に戻って行く。

自分の思いは元には戻っていない。

ほんの1年半と短かった期間だが、

今までの転勤と違い思い切りの悪い自分に気が付いた。

慎一は思い切るようにベランダから見える大山の姿を目に焼き付けて

静香さんと一緒にエレベーターに乗った。

今晩に静香さんと美波ちゃんにご馳走しようと

手元の鞄にはコーヒーのセットを入れている。

 

後藤家までタクシーで移動し、明日朝9時30分頃に来てもらうよう予約した。

美波ちゃんは、今日が夏休み最後のクラブのためまだ帰っていない。

慎一は静香さんへ断り、長い間仏壇に手を合わせている。

静香も少し後ろに座り手を合わせた。

彼がこの家に来るようになって今では慣れた風景となっている。

静香は彼が何かを呟きながら手を合わせていることに気がついた。

 

静香は彼へお茶を入れて、居間でゆっくりと京都の話をした。

自分は修学旅行以来で全く知らないことや

神社、仏閣が好きな慎一にはすごく楽しみなのでは?とか

美波と一緒に遊びに行った時は案内してくださいねとか

非常に多弁ないつもと違う自分に気がついた。

 

慎一は慎一で静香へ山陰で色々と行った時の思い出とか

神社や神話や食べ物の話とかをずっとした。

彼自身もいつもと違う自分に気がついた。

 

二人は目を合わせて笑った。

そこはいつもと一緒だった。

二人はいつもと同じにいつものように今日は過ごそうと決めた。

 

静香が夕食作りに台所へ立った。

いつものように

リズミカルな包丁の音

コンロを付ける音

菜箸で混ぜる音

食材が焼けた音

食材が煮える音

様々な音のあることを今日初めて意識した慎一だった。

いつもこの家にはこれほどの種類の音があった。

母親の出すそれらの音とは異なっているにも関わらず、

そのいつもの音が、

慎一へ家庭の暖かさと

ずっと長い間彼女と一緒にいたような錯覚を覚えさせるのかもしれない。

静香さんが慎一へお風呂を勧めてきた。

ゆっくりと湯船に浸かる。

自然と『あーあ』と伸びをしてしまう。

こんなまだ陽があるうちに風呂に入るのは久しぶりでその良さを再確認した。

そのうちに美波ちゃんの帰ってきた声が聞こえた。

慎一は用意された男物のパジャマを着て居間へと向かった。

 

今晩の献立は

『白イカ、タイ、アワビ、岩ガキの刺身盛り合わせ』

『ハマチとヒラメのカルパッチョ バルサミコソース添え』

『タイの塩焼き』

『タイの兜煮とアラ煮ソーメン』

『アワビ、岩ガキの酒蒸し』

『小豆雑煮』

全て慎一の大好物だった。

ビールを飲んで、その後冷酒を飲む。

慎一はゆっくりと噛み締めて、各食材の味を確かめるように味わいそして飲み込んだ。

『こんな美味しいご飯を毎日のように食べていたんだなあ』

と今更ながら驚きを感じた。

 

美波ちゃんが食べ終わったので、

慎一は酔っ払う前に二人へプレゼントを渡した。

「ああ、これ欲しかったの、ありがとう。すごくかっこいい」

「まあ、こんな素敵なものを・・・私の誕生石・・・とても嬉しいです。

ありがとうございます」

「うん、喜んで貰えて良かった。

 二人からいつも力を貰えたからがんばれた。そのお礼やで」

「ううん、私こそおじさんに色々と・・・ありがとう、後でまた下りてくるね」

「わかった。まだ飲んでるから」

美波ちゃんが2階へ上がって行った。

静香さんは片付けものをしながら食器を洗っている。

(つづく)

25.それぞれの思い

家に帰り1人になると静香の心は千々に乱れた。

彼の前では気が動転してボーとしてしまった。

彼は転勤族と覚悟はしていたものの実際に経験すると余りにも唐突過ぎた。

あと半年、あと1年あればと思う心もあるが

きっといつであっても唐突に感じるものなのだろうとも思った。

美波に話す前にまず自分が何とか納得しなければならなかった。

この1年半、特にこの1年は本当に楽しかった。

特に今年の花火大会での彼の肩の温もりを思い出す。

自分の心が夫に会う前に戻ったかのようだった。

今まで二人でがんばって生きてきた親子への神様からの贈り物と思うしかなかった。

 

静香は美波のショックが心配だった。

常日頃、『転勤族だからずっといるとは考えないで』と伝えてはいたが、

まさかこんなに早いとは思ってもいないのではないかと・・・

学校から帰ってきた美波に彼の転勤のことを伝えた。

最初、ポカンとしていたがすぐに2階へ上がっていくとしばらく下りてこなかった。

もしかしたら母親を困らせたくないと思ったのかもしれない。

 

 しばらくして美波が下りてくると

「おじさん仕事をすごく出来る人だから、きっとみんなが必要とするんだねえ。

 喜んで見送るしかないね。それに京都だったら電車1本だから近いし」

「そ、そうね。きっとみんなに必要とされてるのよね」

「今度の土曜日はおじさんを送る会をするんでしょ?」

「そうね。そうしましょう。目一杯美味しいものを食べて貰って、

元気をつけて送り出しましょうか」

「お母さん約束ね。絶対に泣いちゃ駄目だからね。美波も我慢するから」

 

静香は美波の成長に目を見張った。

こんな大人の会話が出来るとは考えていなかったからだった。

彼は今頃毎日遅くまで仕事をし、家に帰れば引越準備をしているはず。

静香は毎夜さざなみに来る彼のために、彼専用のご飯を作って送り出すことに決めた。

あと1週間しかないが精一杯美味しいものを作ろうと考えている。

 

慎一は空いた時間を使って『高島屋』へ入った。

静香には、誕生石を使った『真珠とペリドット帯留め』と

「芥子色とシルバーの伊賀組紐正絹帯締め サードオニキスの飾り付き」を、

美波には昨年発売され欲しがっていた『流線型のGショック、Gクール』を、

それぞれ包んで貰った。

京都とは言っても大して遠いものでのないし、いつでも帰ってくる意識はある。

携帯がメール機能を開始したことを知り、慎一は携帯ショップへ寄りその手続きをした。

(つづく)

21.幼い兄妹(きょうだい)の依頼 1

ある夜、10日ぶりに百合の横で眠る翔は夢を見た。

幼い少年と少女が手を取り合って話しかけてくる。

「ぼくたちのお母さんが苦しい思いをしているから助けて欲しいんだ。

 お母さんは『大望楼』という料理屋さんで働いているんだ」

「お母さんが泣いているから助けて、お願い。お礼にこれあげる」

少女がおもちゃの指輪を翔の手のひらに落とした。

「こんな大切な物、君が持ってなさい。大切にしなさい」

「ううん、もう持ってても仕方ないから。おじさんにあげる、

 お母さんの名前は孫理恵子、日本人だよ、お願いね」

二人は霧の向こうへ消えるように姿が見えなくなった。

 

朝に目を覚ますと、手の平にはおもちゃの指輪が握られていた。

百合に話すと『ぜひ助けてあげて。私もがんばるから』と張り切っている。

 

ネット情報では

【大望楼】

新宿区で一番古い中華料理店。

戦後すぐに来日し頭角を現す。

社長は趙太望。秘書が4人もいる。

東京中華の代表。本国にも太いパイプがある。

これだけの情報しかなかったので、まずは調査からだった。

社長の名前の「チョウ」が気になり慎重に行動した。

 

中華料理を一人で食べるのも目立つので百合と一緒に食べることとした。

夜に電話予約し、

百合はショートヘアのビジネスウーマン風、

翔は黒メガネのサラリーマン風に頬に大きな黒子を付けて来店した。

最初は新宿では普通に歩いているクラブ嬢と同伴の客を装うことと考えたが、

当然のことながら百合は全く経験がないので無理があった。

それで社内恋愛の二人風を装って来店した。

 

初めてを装って内装を見まわしながら『監視メガネ』からRyokoへデータを送った。

やはり監視カメラらしきものがあるとの回答がメールで送られてきた。

スマホの画像に場所に○印が付けられている。

テーブル席全体のカメラは3台で、入口正面絵画部分、左右の照明2か所だった。

何とか兄妹のお母さんを見つけないといけなかったのでネームプレートに注意した。

料理を運ぶ担当の一人が『孫』という名札のついていることを確認した。

彼女が来た時に「理恵子さんですか?」と百合が聞いた。

「はい、そうですが」

彼女は驚いた表情になっている。

「実はこの店のファンの人に紹介頂いた時、

『孫理恵子さん』という人に大変お世話になったとお聞きしたので」

理恵子さんはなおも驚いた表情だったが、

監視カメラからは見えないように、タブレットを見せた、

「この人ですよ。ご存じじゃないですか?」

 

画面には

『接客の態度で接してください。

 実はお子さんから助けてくれと頼まれました』

あの指輪の写真を一緒に載せている。

 

彼女は驚いたようにじっと画面を見ている。

『必ず助けますから待っていて下さい』と画面の文字で伝えた。

「はい、あの方ならよく来られる方ですよ。よろしくお伝えください」

彼女は少し悲し気な顔で席から離れて行った。

それからは食事を楽しむふりをして、

鞄に待機させたクモママをテーブルの裏に引っ付かせた。

『クモママ』は、クモ大助のように体色を背景に同化させる能力と

聞き耳タマゴとおしゃべりタマゴを持っているクモ助を腹部に張り付けている。

二人は食事を終えると向かいの24時間喫茶へ入り二人で時間を過ごした。

もし不審に思われて後を付けられた時にわかりやすいからである。

しばらく時間をつぶして二人で事務所へ戻って行った。

もうそろそろ閉店の時間であった。

その後、店からは1本挟んだ道の路上で車を待機させ、

ステルス型ドローンを発進させ百合に中華料理店を詳細に撮影させた。

翔は運転席でクモママの赤外線の視界を確認すると真っ暗な店内になっている。

非常灯の緑と消火設備の赤いランプのみが暗闇に映っている。

早速、テーブルの裏から移動を開始した。

ドローンの映像では、理恵子さんは姿形から3階の一番窓側の部屋のようだった。

4階にはボスらしき広い部屋がありその両脇には秘書らしき部屋、

3階には4階への階段の脇にも秘書らしき部屋がある。

この秘書たちの中には、

前回の事件において地下道で逃げおおせた男も含まれている可能性もあり、

もしそうなら4人は相当な腕前のようだった。

しかしドローンからの透視情報では、3階の秘書の部屋の1つに人はいなかった。

クモママを1階から3階の階段を高速に移動させていく。

3階に着いた時、体色を廊下色に同化させ慎重に理恵子さんの部屋まで移動させ、

ドアの隙間から侵入した。

どうやらシャワーを浴びているようだ。

部屋の窓を少し開けて空気を入れ替えている。

クモママを寝室の家具の裏まで移動させた。

クモ助を出動させてガウンの襟元に聞き耳タマゴを入れた。

(つづく)

24.突然の辞令

お盆休みの前に京都支店の同期から

『突然家業を継ぐことになった』との連絡があった。

親父さんがこのお盆前に突然脳卒中で亡くなり、銀行を辞めるしかなかったそうだ。

会社の都合で非常に変則だが、8月末をもって銀行を辞職することとなった。

そいつは慎一が目標とするくらい仕事の良くできる同期だった。

京都支店の新規開拓担当で京都支店は相当に困っているらしい。

 

お盆休みにゆっくりとして、出勤すると支店長へ呼ばれた。

同期の後釜として京都支店に行くように言われた。

突然のことに驚いていると、

この異動は得意先の要望でもあり特別なケースだと言われた。

 

以前神戸支店勤務の時、新規開拓で成功した大きな繊維会社が、

今度新しく京都へ出店するとのことで、

以前の担当で信頼できてすごく真面目だった日下さんをお願いしたいと要望された。

京都支店長は将来の頭取候補の最有力と言われている人なので、

山陰支店長も断るわけにはいかなかったようだ。

成功した暁には山陰支店の支店長代理として迎えたいとも言われ、

9月1日に特例の異動となった。

 

それからは、現状の業務の引き継ぎと通常業務をこなしながらの毎日となった。

静香さんにも『今度の23日土曜日に部屋で話したいことがある』と伝えている。

ほんの少し前、お盆前までは全てが順調で楽しい日々が続いていた。

それが急な異動で大きく環境が変わってしまった。

 

23日土曜日朝10時頃に静香さんが部屋へ来た。

慎一は何から切り出していいものかわからず、

いつものようにとりあえず『静香スペシャル』を作った。

二人でコーヒーを飲みながら、急な異動の話を伝えた。

静香さんは驚いたようだったが、

31日日曜日朝10時に米子駅から岡山へ行き、

新幹線で京都まで向かうことを確認し、

30日の夜は後藤家へ泊まるように依頼された。

そして『美波には静香が伝えるのであなたからは言わないように』とお願いされた。

慎一は静香が冷静なことを意外に感じた。

ただ彼女の顔にいつもの微笑みは一切なかった。

 

今夜は仕事が残っていること、日曜日も同様で家には行けないことを伝えた。

次の月曜日からは、晩ご飯は必ずさざなみで食べては銀行へ戻る生活が続く。

夜遅く家に帰れば引越の準備が待っている。

美波ちゃんは月曜日以降さざなみに顔を出さずにいるようだ。

(つづく)

20.百合との出会い 4

百合の部屋は、4LDKで1人の部屋には広すぎるらしいが、

娘の身を案じたご両親が是非にと購入したらしい。

ダイニングで座っていると百合が薬箱を持ってきて手際よく手当をしていく。

良く見ると泣いている・・・

ふと本人もそれに気がついて涙を手で拭いその手を見つめている・・・

「これって涙?なぜ涙が???」

「さっきの闘いが怖かったからじゃないか?ごめんね」

「いえいえ、確かに怖かったのですが、あんな強いすごい人と戦って、

 もしあなたが死ぬ事になったらどうしようと考えていました。

 でも、あなたが無事だったからホッとしたら泣いていたのです」

「うーん、もしかして館林さんはあまり泣いたことがないの?」

「はい、私は子供の頃から泣きも笑いもせずに育ってきたと

 祖父母からは聞かされています」

「へえ、そうなんだ。こんなに可愛いのに勿体ないなあ。

 あっ、嫌、変な意味ではないから誤解しないでね」

「可愛いなんて、初めて言われました。何かうれしいです」

「そう、そこで口角を上げる」

「口角?こうですか?」

「そう、もっと目をこんな風にして」

「ぷっ、おかしい」

「そうそう、その感じ、それが笑うっていうこと」

「ふーん、でも笑うって、すごく楽しいことですね」

「そうだよ。笑うっていう事は楽しいこと、もっと楽しんで」

「今日初めて、笑うと楽しいことを知りました。桐生さん、ありがとうございます」

「そんなに大層なことではないから気にしないで。

 館林さんは笑えばもっともっとみんなからモテますよ」

「モテる?あまり意味がわかりませんが、桐生さんが喜ぶならそうします」

「いや、僕はもちろん嬉しいけど、僕ではなくて」

「なぜ桐生さんではいけないのですか?私はあなたの事がとても気になりますが」

「それはありがとう。でも君と僕とは世界が違うから」

「世界が違う?・・・同じと思いますが・・・」

「まあまあ、今日はありがとう。

 それはそうとこの子の名前は『ミーア』だったっけ?」

「そうです。ミーミー泣いていた女の子なのでそうつけました、いかがですか?」

「ミーアちゃんか、いい響きだ。ミーアちゃん、では帰ろうか」

「桐生さん、お願いがあります。

 今後ミーアちゃんと遊びたいので桐生さんの家にたまにはお邪魔していいですか?」

「いや、汚いところだから困るよ」

「汚い?だったら私が掃除しますからいいでしょ?」

「うーん、そういう意味でないんだけど」

「桐生さん、正直に答えてください。私が行くと迷惑ですか?」

「いえ全然、わかりました。

 では今度部屋に案内します。狭くて汚いから驚かないでよ」

「はい、驚きません。百合は今度桐生さんのお部屋に行くこと楽しみにしています」

 

百合がコーヒーを入れてくれた。

ミーアの前にはミルクが置かれた。

口の中が若干ヒリヒリするが、ブルマンは最高に美味かった。

ひと暴れした後だから格別だった。

しかし本当に強い男だった。

あんな男が市井に隠れているならもっと鍛錬しなければならないと感じた。

百合は翔を心配そうに、それでいて潤んだ瞳で見つめていた。

(つづく)

23.浴衣2

「少し下で待っていてください。私も着替えますから」

しばらくして二階から着替えた静香さんが下りてきた。

長い髪はそのまま下ろされ、

「白地の網代模様の浴衣」に「辛子色の麻の葉模様の帯」が締められていた。

「いい柄だったので私も気に入ってお揃いにしました。いかがですか?」

「いやあ、綺麗なあ。あっ、変なこと言ったごめん」

「ううん、ありがとうございます。

 あなたと一緒の時は、

 普段の私のままでって考えて、髪を下ろそうと思って」

慎一は、髪フェチと言うわけではないが、彼女の髪は本当に綺麗で魅せられていた。

細くストレートでほんの少し茶色が混じった自然な黒色で光の下では煌めいている。

 

二人揃って花火大会会場へ歩いていく。

『夏の米子の最大の風物詩』の始まりだった。

昨年と同じ場所は座るところがなかったので特等席から離れた湖岸に座った。

灯りも少なく木の陰になっており周りには人はいなかったが、

時間が経つにつれてたくさんの人が集まってくると思われた。

 

やがて花火大会が始まった。

夜空に大輪の花が咲いては消えていく。

夜空に届くくらいの火柱の大きな音が空気を震わせる。

静香さんが驚いて慎一を見ては夜空を見上げている。

いろどりの時間が刻々と過ぎていく。

少し冷たい風が吹いてきていることに気がついた。

「静香さん、少し寒くない?」

「ううん。でも確かに少し寒いかも・・・」

「もたれていいですよ」

「はい、お言葉に甘えて、重くないですか」

「全然、いやあ、少し暖かくなったね」

「そうですね。ありがとうございます。

 去年も今年も本当に綺麗な花火で、

 私には一生忘れられない花火になりそう」

「僕にとってもそうや。

 来年もこんな風に二人で見たいなあ」

「ふふふ、それは私も同じ、

 そうなることを神様にお願いしておきます」

「変なこと言うなあ。まあ来年も楽しみや」

静香は後ろ手を突いている慎一の胸に頭を持たせかけたまま夜空を見つめている。

慎一は立ち上る静香のほのかな香りに花火どころではない気持ちだった。

(つづく)

19.百合との出会い 3

百合がぐったりしたミーアを抱き上げた時、その周りを不審な集団に囲まれた。

翔が一瞬、百合の盾になって手足を広げた瞬間、

足元に影のように早いタックルが仕掛けられ、

ボディースラムの態勢にされ、

ジャンプして翔は背中から地面に叩き付けられた。

とっさに頭は腕で守ったが、息が詰まり喉の奥に血の味がしている。

その瞬間、周りを囲まれて蹴られた。

顔やその他の急所を守るべく守りの態勢に全力を挙げた。

やがて少しずつ呼吸が出来てきた。

痛みはあるが動く部分を確認した。

全身の筋肉や骨に異常部分はないと確認できた。

 

「俺はビーストってんだ。おめえが女にいい恰好している奴だな。

 昨日、偶然ダチがおめえを見つけたから待ってたんだよ。

 変な技を使うと聞いたが、使う間もなくKOか?ははははは」

「さすが、プロレスラーを目指しただけはありますねえ。

 あんな強烈なヤツを喰らったら死んでるかもしれませんね」

「さあな、俺はそろそろ消えるとするか」

「ありがとうございます」

「いつでも行ってきな。どんな奴でもKOだぜ。ははは」

 

翔はフラフラしながら立ち上がった。

全身が悲鳴を上げているがそんなことを気にする間はない。

百合に何かあれば大変だった。

桐生一族の呼吸法を行った。

全身の痛みを抑え、同時に全身に力を注ぎこむ。

桐生一族鬼派次期党首候補として敗北は許されない。

この技を喰らったのは己の慢心が招いたことと反省した。

「ほう、あの技を喰らっても立ってくるか

 俺の体重もかかってるから相撲取りでもKOしている技なんだが」

敵は体重がありタックルなどを使用することから

翔はとっさの動きに対応できる猫足立ちの構えで対峙した。

ビーストはニヤニヤ笑いながら近づいてくる。

顔にパンチの一つや二つを喰らっても無視している。

ローキックを繰り出したが上手くさばいている。

相当に場馴れしている男のようで当て技では筋肉の鎧に弾かれて効かない。

そうとなれば抜き手で筋肉の鎧を破壊するしかない。

男がガバッと掴みにかかってきた勢いに乗せて懐へ入り抜き手を鳩尾に入れた。

指全てが埋まるくらいに抜き手が発達した腹筋の間に入っている。

動きの止まった男の顎に、身体を沈ませて頭に拳を乗せて全身のバネで叩き込む。

顎の上がった喉元に両手でモンゴリアンチョップを入れて昏睡させた。

本来はチョップではなく、喉の急所に抜き手を入れて殺す技だが、

殺す訳にはいかなかったので仕方なしに生かした。

仲間たちはビーストと呼ばれた男が一瞬で倒されたので後ずさりしている。

翔は彼らに言った。

「その男を連れて行け。今後この目黒近辺で見かけたら殺す。わかったな」

「はい、わかりました。もう目黒には一切来ません」

男達はビーストと呼ばれた大男を抱えて逃げて行った。

 

百合が驚いて立ちすくんでいる。

翔はさすがに疲れてベンチに座り込んだ。

「館林さん。もう大丈夫ですよ。

 ネコちゃんも大丈夫ですか?」

「は、はい。桐生さんは大丈夫ですか?」

「ええ。大丈夫です。今回は逃げられなかったから戦うしかなかったですねえ」

「こんなにひどい顔になって私のためにごめんなさい」

「いえいえ、あなただけでなく子猫ちゃんのためでもあるからね」

「じゃあ、急いで部屋へ入ってください。そのネコちゃんは僕が育てますよ」

「今日は部屋に来てください。ちゃんと手当しないと・・・」

「これくらいは大丈夫ですから気にしないでください」

「そんなこと言わずお願いですから手当くらいさせてください。

 そうじゃないと私、あなたのことが心配で、私のためを思うなら手当させて下さい」

「うーん、今回だけだよ。あなたに危険な思いをさせたくないので」

(つづく)

22.浴衣1

今年度は昨年度の地道な努力が実り、順調に新規開拓ができている。

数字も前年同月比で130%以上の進捗で課員も張り切って仕事している。

赴任して来た当初の課員の雰囲気は『達成できなくて当然との意識』が

透けて見えるほどで、やる気にさせるのが大変だったが、

ここにきてモチベーションも上がっている。

父もやがてアパートから引っ越してきて母と住み始めた。

妹夫婦は引っ越そうと考えていたが、

母の『父に孫と遊ばせたい』との願いで引き続き一緒に住んでいる。

公私ともに順調で美波ちゃんもクラブにテストに調子がいいみたいだった。

すべてがうまくいっている時はこんなに楽しいことを慎一は初めて知った。

 

今年も『米子がいな祭り』の季節がやってきた。

昨年と同じように静香さんと花火を見る約束をしている。

いつものように美味しい夕食を食べて、心地良い酔いに身を任せている。

静香さんも少し飲んだようで、頬は少し赤くなっている。

美波ちゃんは友達と約束しているので先に急いで出て行った。

 

「ねえ、今年は慎一さんの浴衣を縫いましたから着て下さいます?」

「えっ?浴衣!?着たことないから着付けをお願いできますか?」

「はい、では2階へどうぞ」

そこは静香さんの寝室だった。化粧品の淡い香りに満ちている。

5月頃から二人並んだ時に、やたら慎一の上や下を見ていた記憶があったが、

採寸していたとは気がつかなかった。

 

「いい柄の生地を見つけて、せっかくだから浴衣を作ってみようと思っていたの。

 廊下に出ていますから着替えて下さい。帯を結ぶ時には声を掛けてください」

慎一は服を脱いで、浴衣を広げて身体へかけた。

浴衣は「濃紺の網代模様」で、帯は「辛子色の無地角帯」だった。

「静香さん、とりあえず着替えましたが・・・」

「はい、こちらを向いて下さい。次に背中を向けてください」

静香さんはテキパキとしていく。

背ぬいに裄(ゆき)を合わせて、襟先をそろえ、下前を合わせ、上前を重ねた。

そして腰ひもをサイドで結ぶ。

襟はのどのくぼみが見える程度にあけて合わせている。

帯は「貝の口」に絞められた。

(つづく)

18.百合との出会い2

大学で翔は『格闘技研究同好会』に所属していた。

この同好会は戦うわけではないが、闘いの歴史や暗器などの研究をしている同好会で、会員は何某かの格闘技の経験を持っている。

翔自身は『空手』の経験があるという事で入っている。

そんなところへ何と新入会員として彼女が顔を出した。

2年生の白川会員と同じ研究室だという事で誘ったらしい。

そして百合は翔を見て頭を下げて挨拶をした。

 

「あれっ?桐生先輩、

 館林さんをご存じだったんですか。

 なあーんだ。皆を驚かそうと思ったのに、

 彼女、こう見えて合気道をしているんだって」

「なんだ、桐生の知り合いかよ。

 こんな綺麗な子、隅に置けないなあ」

「いや、知り合いというほどでもないが・・・」

「少し前に桐生さんに助けて頂きました。

 あの時はありがとうございました」

「桐生がねえ。いつもは戦わないのに珍しいな」

「いやいや、大したことはない、

 ただ逃げてたら相手が疲れただけだから」

「そうなんだよなあ。

 桐生は絶対に反撃しないで相手を疲れさせるからなあ」

「当たったら痛いから嫌なだけですよ」

百合が何かを言おうとした時に、

翔は彼女にだけ見えるようにウインクして指で口に『シイー』としている。

 

その日から二人は同好会で会合を開いている間は顔を合わす関係となった。

百合は目黒のタワーマンションの一室を借りているが、

翔は五反田のボロアパートを借りている。

歓迎会の帰りが遅くなったので、会員達は隣町に住む翔を護衛につけて送らせた。それから時々二人で帰る機会が増えてきている。

ときどき誰かの視線は感じるが害意は感じないので放っておいている。

百合は何度も翔を部屋へ入るように勧めるが入ることはなかった。

翔は一族の次期党首候補でもあるので一般人ましてやお嬢様は避けていた。

ただお人形のように可愛い百合を見ていたかったので、いつもマンションの近くの公園のベンチで座って色々とよもやま話をしている。

 

そんな時、その公園に子猫が住み始めたらしく百合が可愛がっている。

マンションはペット禁止となっているため仕方なかった。

今日も子猫を呼んでいる。

『ミーア、ミーア』

だが返事がない・・・

そのうち小さな鳴き声が絶え絶えに聞こえてくる。

急いでいつもの藪に向かうと子猫が怪我をして横たわっている。

(つづく)