はっちゃんZのブログ小説

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26.翔とミーアと百合 1

翔がミーアを飼い始めてから百合が翔の部屋へ来る回数が増えている。

そうなってくるとお互いが急速に親しみを増してくるもので、

百合のぎこちない笑顔が自然なものとなるまで時間はそれほどかからなかった。

元々百合は翔の強さを尊敬しているし、態度はぶっきらぼうだが、

本当の彼の優しいところを知っているので恋へと変わるのは自然だった。

翔も小さい時から修行一本の生活で女の子とは全く接点がなかったし、

ネットを見て、デートだとかファッションだとかに時間を費やすつもりはなかった。

実は百合もそういうことは苦手というより興味がなかったので二人の波長はあった。

百合は生物化学研究室で研究をする傍ら、同好会にも顔を出し学生生活を楽しんだ。

翔とはまだ手もつながない関係だったがそばにいるだけでお互いが落ち着いた。

二人には一緒にいるだけで何をするでもない時間が意外と心地良かった。

 

百合が翔のためにご飯を作るようになると

質素ではあるが吟味された素材を使った料理は翔のお気に入りになった。

翔も今流行りの草食系男子では決してないし、

健康な男であるから女性にはそれなりの感覚を持っているが、

なぜか、特に百合に対してはその笑顔だけで十分満たされてしまっていた。

ぱっと花が咲いたような笑顔、

キラキラ光るあどけない瞳、

口許からこぼれる真珠のような歯、

翔はその全てが好きだった。

次期党首候補として、男として、人間として無責任なことはしないと決めていた。

ただミーアを挟んでの二人でいるだけで満たされる暖かい関係を好んだ。

 

ある時、百合が翔の家へ向かっていると、

大きな風呂敷を持っているお婆さんがベンチに座って汗を拭きながら休んでいる。

「お婆さん、そんなに大きな荷物を持って大変ですね。

 もし良かったら、行かれる場所まで荷物を持ってお手伝いいたしますよ」

「あらまあ、こんな若いお嬢さんが、ありがとうございます。

 実はこの近くに孫の住んでいるアパートがあって、

 田舎から野菜を持ってきたのですよ。助かります」

百合とそのお婆さんが連れ立ってアパートに向かっていくと

なんと翔のアパートだった。

そして向かう部屋も翔の部屋だった。

百合は驚いて

「もしかして、桐生さんのお婆様ですか?」

「はい、そうですよ。翔、ドアを開けておくれ」

「ああ、婆ちゃん、開いてるよ。

 あっ、百合、さん、も一緒だったの、驚いた」

「偶然、お婆様にお会いして一緒に来ました」

「ああ、私がベンチで休んでいるとこのお嬢さん、百合さん?

 手伝いますよと声を掛けてくれて、持ってもらってたのさ」

「ああ、館林さん、ありがとう。助かったよ」

「えっ?館林?さん・・・」

「ええ、いつも桐生さんにはお世話になってます」

「まあ、そんなところで話もなんだから部屋へ入ってよ」

「ああ、そうだね。あらっ?この前来た時とはえらく綺麗になってるねえ」

「うん、館林さんにたまにやって貰っているんだ」

「いえ、そんなにうまくできている訳ではありません」

「ふーん、館林さんにねえ」

三人は部屋に入り、百合がお茶を入れる準備を始めた。

「こんなことまでしていただいて申し訳ありません」

「いえ、私が入れます。お婆様にしていただく訳にはまいりません」

「それはそれはありがとうございます。翔、館林さんに座布団を出しなさい」

「あ、はい、座布団は座布団は・・・」

「あの、押入れの右下にしまっています」

「ああ、ありがとう」

「何だね、この子は、もしかしてみんな館林さんにさせているのかねえ」

「いえ、そういう訳ではありません。私が昨日掃除した時にしまったもので」

「いつも孫の翔に良くして頂いてありがとうございます」

「いえいえ、私が桐生さんに助けて頂いてばかりなのでほんのお礼です」

「まあ、何をしたかはわかりませんが、

 この子はまだまだですから、いい気になるのでおだてないで下さい」

「婆ちゃん、もういいよ。館林さん、ごめんね、ありがとう」

「いえ、全然気にしていません。お元気で明るいお婆様で私は好きです。

 うちの葉山の祖父母も元気すぎてこちらが困るくらいですから」

「へえ、葉山に居られるのですか・・・

 年寄りは元気でいるのが一番ですからお大事にされて下さい」

「はい、ありがとうございます」

今夜は翔と百合とミーアに翔のお婆さんが入って4人で賑やかな夕食となった。

(つづく)

34.幸恵の疑問

幸恵は以前から不思議に感じていることがあった。

兄の慎一が父親へある時から理解を示すようになったことに対してだった。

『夫婦の事は夫婦でしかわからない。子供にはわからない』

『お酒を飲んでいない父さんを知っているのはお母さんだけやから』

兄とは長い間一緒にいるがそんな言葉は聞いたことがないものばかりだった。

兄は米子に赴任してから大きく変わったと感じている。

今までは仕事だけの人だったが最近は仕事以外のことにも興味を持っている。

もちろん昔も今も相変わらずの仕事漬け人間であることは確かだが、

少しは人間らしく変わったと感じている。

 

その時に幸恵はあの写真立てのことを思い出した。

兄に内緒で段ボールの中から取り出した。

花見とテニス大会の時のようだ。

良く似た印象の笑顔の母娘が一緒に写っている。

兄の顔も今まで見た事も無いような明るい笑顔だった。

そして、携帯電話の声と写真の母親らしき女性が重なった。

幸恵は急いで携帯電話を出して着信履歴を見るとあの時の番号が残っている。

急いで彼女へかけ直した。

 

「はい、後藤です」

電話番号は彼の物だがもし奥さんだったらいけないと思ったのだ。

「もしもし、私は日下幸恵と云う者で日下慎一の妹です。

 先日お電話があったようですが、兄に連絡があったのではないのですか?」

「は、はい、ああ日下さんの妹さんですか?

 はい、日下さんがどうされているかと思ってお掛けしたのですが、

 お元気ですか?」

「実は・・・」

幸恵は今までの経緯と兄の怪我の状態や記憶喪失になっていること、

携帯電話は壊れていたので昨日新しいものに変えたことなども伝えた。

控え目ながらしっかりとした電話の受け応えから、

どうやら兄が好みそうな女性であることがわかった。

そして兄が米子で付き合っている女性ではないかと思い、

年も近いであろう後藤さんに幸恵は好意を覚えた。

そして「もし良かったら一度、兄に会って貰えないですか?」と伝えた。

 

静香は電話を切って、あまりの出来事にその場で座り込んでしまった。

一瞬、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからなかった。

ほんの今まで彼を忘れようと考えていたところだったからだった。

美波にどう伝えようか考えて、

やはり悲しいけれど正直に言うしかないと思っていたからだった。

彼がそんな大変なことになっていたのに

私は自分のことばかり考えて恥ずかしかった。

今はとにかく彼の身体の怪我と記憶喪失の事が気になった。

怪我のせいでここ数年の記憶がないらしい。

(つづく)

25.幼い兄妹(きょうだい)の依頼 5

 「おまえ たれ ある」

趙が突然客室へ入ってきた。

翔は急いで彼女をベッドの後へ隠れさせると趙へ攻撃した。

それなりに中国拳法使うが、高齢で体力も続かなくなりフウフウ言い始めたので

後頭部へ手刀を落とし昏睡させた。

続いて秘書らしき男も入ってきたが、趙を盾にしているので攻撃してこない。

甲板まで出ていき理恵子さんに内側から鍵を掛けさせた。

後から気配を消した先ほどの秘書が無言で拳を放ってきた。

口が丸くすぼめられているのが見えた。

さっと盾の趙を前に出し拳を避けると趙が苦しみだした。

趙の顔面を見ると細かい針が突き立っている。

そのうち趙が痙攣を起こし始めた。

毒針だった。

 

こいつがこの前の事件のボスを拘置所内で殺した男に違いなかった。

何とかしたいと考えていると海上保安庁が近づいてきた。

男が浮足立って逃げに入った。

手の平からクモの巣を発射した。

男はデッキの柱に縛り付けられた。

急いで振動棒で機関部を破壊し、目につく武器類をバラバラにした。

 

向こうからもう一人がダブダブの服をはためかせながらやってくる。

両手から光る物が投げられた。

手の位置がまっすぐに心臓と首筋を狙ってきている。

さっと避けて近寄り蹴りを放つ。

袖からキラリと光るものが見えた、長い針のようだ。

男は上に跳んで避けながらこちらに蹴りを放ちつつ針を投げる体勢は変わっていない。

この針にも毒が縫っている可能性がある。

蹴りを受ける振りをして後に倒れこむ隙を作ると

すぐさま敵は馬乗りになり針を突き立てる体勢となった。

その瞬間、後頭部に蹴りを放った。

男の顔の表面が浮くほどの強烈な蹴りだったので男は吹っ飛んで倒れている。

もし蹴りを避けられてもその瞬間、隙が出来た脇腹へ抜き手が入る。

 

もう一人の太った男が向かってくる。

無防備に向かってくるので蹴りと拳を繰り出したがすべて弾き返された。

どうやら硬気功のようで物理的攻撃は効きづらい。

腹筋の間に抜き手を狙ったが入らない。

こうなれば相手にはかわいそうだが使うしかなかった。

翔は『一本拳』を使い指の根元までたっぷりと水月へ打ち込んだ。

さすがの敵も転げまわって苦しんでいる。

そっと後へ回り後頭部へ手刀を入れて昏睡させた。

これでこの事件は一見落着だった。

後でわかったことだが、趙が東京におけるチャイニーズマフィアの一人であり、

「臓器売買」「人身売買」「仕事人による殺人」組織は壊滅させることができた。

 

理恵子さんは、覚醒剤中毒となっており、施設に入り断薬をしている。

子供たちは少しの間という事で児童相談所へ預けられた。

この兄妹から聞いたところによると、

木の根元でお腹が空いて寒くなって、意識がだんだん無くなって来た時

お父さんが現れて翔のところへ導いたらしい。

その後、ずっとお母さんの近くにいたそうで、

ある時、突然お兄さんの元へ引っ張られて助けてもらったと言っている。

指輪もいつの間にか無くなっていたと言っている。

(つづく)

33.間違い電話

兄が実家に帰って来て、だんだんと話すようになると

幸恵は兄の枕元に壊れた携帯があったことを思い出した。

仕事上の事は全く心配する必要がないのでそのままにしようかと思ったし

兄に聞いても特に困っていないと言うばかりなのでそのままにしていた。

 

ある夜、ふと兄の部屋に行った時に見た写真立てを思い出したが、

兄に聞いても「???」の状態で何の返事も無いのでそのままにした。

土曜日に自分の携帯電話の調子が悪いついでにショップへ行き

兄の携帯も見てもらった。

ほとんど完全に壊れているので買い換えた方がいいと言われたが、

番号を変えるのも困るだろうと思い、番号を変えずに新しい携帯電話に変えた。

 

兄がリハビリに言っている時に、携帯電話が鳴った。

「はい、日下です」

「えっ?・・・いえ・・・何でもありません」

『???・・・今の電話・・・間違いだったのかしら・・・』

子供を迎えに行く時間が近づいて来たのでその電話のことも忘れてしまった。

 

静香は息が詰まりそうになった。

驚きのあまり発作的に携帯電話を切ってしまった・・・

慎一の携帯電話に女性が出たからだった。

声の感じからして彼と年が近いと思われた。

 

彼ともう1か月以上連絡がつかなかった。

今日は土曜日だから、もしやと思い電話を掛けたのだった。

そして、やっと繋がったと思ったら彼の携帯電話から

「はい、日下です」

静香はその瞬間、知ってはいけないものを知ったようなショックに襲われた。

これが連絡のつかなかった理由だったと思った。

今の瞬間、家に美波がいなくて良かったと思った。

視界が涙でぼやけてくる。

胸に大きな穴が空き北風が吹き込んでくる。

あの時の彼の言葉が蘇ってきて胸がすごく痛くなった。

『やはり』の思いは強かった・・・

(つづく)

32.霧と痛みの世界

慎一は目を覚ました。

見覚えのない白い天井が目に映る。

心配そうに覘きこむ母親と妹の顔が見える。

隣にどこかで見たような顔色の悪い痩せた老人がいる。

話し掛けてきているがその内容はわからなかった。

医師が現れて、何か声を掛けてくる。

聞かれている意味がわからないので答えようとした、

その時、全身から突然の痛みに襲われた。

大きな悲鳴を上げたらしく、医師が痛み止めを打ってくれた。

 

しばらくして痛みがひいて来るとまた眠った。

夢を見るわけでなく、眠りたいという意識もなく、ただ霧の世界へ戻っていく。

そういう世界を何度か彷徨(さまよ)うあいだに

意識から少しずつベールが剥がれていく。

 

慎一は

自分がどうやらマンションの階段から落ちて入院していること。

肩を複雑骨折して手術していること。

全身打撲で身体を動かすことも困難なこと。

頭蓋骨は線状骨折で現在、脳組織への障害を経過観察中とのこと。

の4点は理解できた。

しかし

なぜ京都にいるのか

京都で何をしていたのか

全く覚えていなかった。

色々と思い出そうとしても

すぐに頭痛や吐き気が出てきて思い出せなかった。

 

意識の戻ったことを聞きつけて上司が見舞いに来たが誰かわからなかった。

チーム員も顔を出し、慎一が提案した『浜絣』が少しずつブームになりつつあると

報告してくれたがその『浜絣』を理解できなかった。

ただ慎一が京都での仕事は成果が出たということは理解できた。

そうこうするうちに年末の忙しさのため仕事関係者の足も遠のいて行った。

 

医師は、慎一と家族へ

「脳実質に頭蓋骨骨折の影響はなく、脳出血等の心配もなく

硬膜下血腫の起こらないことを確認できたのでもうリハビリに入ってください。

記憶が戻らないのは一時的なものなので安心して、しばらく静養してください」

そして、神戸の実家近くの病院を紹介され、

リハビリ開始と共に正月は実家でゆっくりと過ごした。

有給休暇も使い切ったので

銀行側も現場復帰はまだ無理との判断で長期療養の手続きに入った。

 

妹が京都のマンションに行って当初の生活着を持って帰って来た。

色々な物を箱に詰めてきたとは聞いているが中を全く見なかった。

実家では自分の部屋で横になっては眠り、リハビリに行って帰っては眠った。

当然、頭が本調子でないことは理解していたが元に戻す気力が湧かなかった。

 

実は母親と一緒にいる爺さんは父親だとわかって驚いた慎一であった。

母親が昔の写真を持って部屋に入ってきては色々と話していく。

昔の酒の入っていない父親の姿は当然だが若かった。

慎一もにっこりと笑って父親に抱き上げられている。

七五三の時の妹幸恵のうれしそうな顔。

慎一は記憶にあった父親の姿が変わっていくことに気がついた。

『夫婦のことは夫婦しかわからない』という言葉が浮かんできたが

頭痛がしてきたので写真から目を離して休んだ。

しかし少しずつではあるが、慎一は意欲が戻りつつあり

『何とかしなくては』と思い始めてもいた。

(つづく)

24.幼い兄妹(きょうだい)の依頼 4

翔は都倉警部へ急いでこのたびの事件を連絡した。

実は公安も内偵を進めていたようですぐに連携が取れた。

すぐに新宿のアジトに急行したが、もぬけの殻だったらしい。

富士の別荘の部下からの定時連絡がなかったので異変に感づいたのかもしれない。

急いで百合に『聞き耳タマゴ』の位置を探索させると

横浜港の船の中に理恵子さんがいることがわかった。

 

都倉警部にその情報を伝え、翔も現場へ急行することとした。

ヘルメットに『スーパーモード』と伝える。

後輪部分が後へ移動しサイドカーが組み込まれ4輪体勢になる。

シート部分が下がり、それに伴いフロントフォーク部分が延びハンドルが近づく。

カウル部分がライダーの後ろまで流線型に延びて固定される。

タンク部分にはコンピューターが組み込まれており、

コードが延びてきてヘルメットへ接続される。

これでヘルメットのフェイス面へ情報が映り指示も出来るようになる。

走行時はコンピューター制御となり車体の傾けから全て自動運転となる。

安全走行の最高速度は300キロと羽根をつければ跳びそうなバイクである。

ステルス装甲のバイクなので速度違反に引っかかることはない。

 

このスピードを追跡できる車両はスーパーカーだけなので安心して横浜港へ向かった。

30分で横浜港への標識が見えてきた。

スーパーモードを解除し港へ向かうと都倉警部が待っていた。

現在、富士の別荘は静岡県警に向かわせているとのことだった。

 

ここからは時間の勝負だが、人質の理恵子さんが心配だった。

趙は小型客船に武器らしきものを積んでいる気配があり

海上保安庁が趙の船を港から逃がさないように見張っているが反撃が心配だった。

翔は都倉警部と打ち合わせた。

敵の武器を沈黙させることと人質の救出を同時にする必要があると考え、

船腹まで翔が近づき舟の後ろ側にある部屋へ忍び込み人質の理恵子さんを救出する。

救出後、すぐさま兵器とエンジンを無力化することとした。

 

翔はそっと海に入りバトルヘルメットのボタンを押した。

ヘルメットとスーツの連結が開始され、ヘルメット内も気密構造となる。

ヘルメット内の酸素カプセルには1時間程度は活動が可能な量が埋蔵されている。

バトルブーツの裏側の底蓋が空きスクリュ-が回転する。

翔は音も立てずに船へ寄っていく。

敵もライトなどを照らして警戒しているが、

水中を来られては気づくはずがなかった。

やがて船尾へ到着し、

バトルハンドの手の平から黒のクモの糸状の物質が噴射され船尾の部品に絡みついた。

見つからない様にそっとよじ登っていく。

敵も気が付かなかったようで人質が幽閉されている客室へ向かった。

彼女は後ろ手にロープで縛られておりぐったりとしている。

翔は急いでロープを切断し、お子さんを無事助けたことを伝えた。

彼女の瞳に光が戻り始めた。

(つづく)

31.壊れた携帯

静香は夜になって何度も電話をしたが

『お客様の携帯電話が圏外にいるか電源が入っていないので繋がりません』

のアナウンスが聞こえてくる。

メールを送っても返信はなかった。

もしかして彼の身に大変な事が起こったのかも?

なぜか異音を発し二つに割れた湯呑が気にかかる・・・

もしかしたら単に携帯が壊れて修理に時間がかかっているのかも?

そうだったら別にいいんだけれど・・・

 

銀行に電話を掛けても身内でもない人間に教えてくれるはずもない。

彼から何の連絡もないのに京都に行けるはずもなくじっと待つ日々が続いた。

昔は携帯電話のような便利なものは無かったため

ある意味、待つ時間を楽しんだり、それゆえの苦しみもあったが

現在のようにすぐに繋がるような時代になると、

繋がらなくなった時の不安は昔より大きくなることに気づいた。

 

何度もメールをしている美波は不安そうな顔になっている。

『きっと何か理由があるはずだから待ってましょう』と言い続けるしかなかった。

一人になると色々な不安が心へもたげてくる。

本当に待ってていいのかしら・・・

最後だから私を喜ばせたくてあんな嘘を言ったのかも・・・

やはり私では駄目なのかも・・・

いや、彼の言葉を信じるべき・・・

夫に約束した?

夫?

夫と死別している女は重荷では・・・

私達親子が彼には負担だったのかも・・・

彼は優しいから私達親子を傷つけないようにしてくれていたのかも・・・

 

彼の優しい抱擁を思い出すだけで胸が熱くなる。

彼の唇を思い出すだけで頬が熱くなる。

彼の香りとまなざしを思い出すだけで心が落ち着いた。

やはり彼の言うとおりずっと待ってよ・・・

でも、もし彼に好きな人ができたら私はどうしたらいいのかしら・・・

そしてその時、美波にはどう言えばいいのかしら・・・

その後、私の心はもう一度昔に戻ることができるのかしら・・・

彼によって一度開け放たれた心の扉は、もう閉めることが出来なくなっている。

(つづく)

30.湯呑

『今日はちょっと眠いなあ、久しぶりの休みやから外でコーヒーでも飲むか』

と考えてマンション前の喫茶店へ向かった。

美波ちゃんや静香さんからのメールを読みながら部屋を出た。

エレベーターよりも、たまには歩こうと考えて階段へ向かった。

 

慎一はこのまま京都での仕事がうまく行き始めて米子へ帰ることを考えた。

そして、米子へ戻った自分を想像してみた。

いつかきっと静香さんと結婚するであろうことは想像できた。

しかし、ここである事に気が付いた。

転勤族の慎一は同じ場所に3年と居ないのが普通で米子にずっといることはできない。

『山陰の人は地元から離れることを嫌うことが多い』と得意先からも聞いている。

仮に静香さんと結婚し転勤した場合、美波ちゃんは米子で1人になってしまう。

今までは2人だったから耐えてこられたことも多かったであろうことは感じている。

きっと美波ちゃんを1人にすることは静香さんも望まないだろう。

だからと言って慎一の頻繁な転勤に学生の美波ちゃんを連れて行くことはできない。

慎一は自分の幸せと彼女達の幸せの形が違っていることに気が付いた。

このまま行って一緒になっても3人は幸せになれないかも・・・

二人の笑顔が浮かんだ。

どうすれば・・・

ふと上を見上げた。

その時、二人の笑顔が歪んで視界がグラリと揺れた。

 

12月の最初の土曜日朝、静香はいつものように洗い物をしていた。

昨夜、彼からのメールで

『明日、久しぶりに休めそう。仕事がうまく行き始めた。良かった』

『それはおめでとう、ゆっくりと休んでね』

静香が鼻歌を歌いながら彼の笑顔を脳裏に描いた。

その時、食器棚の中から異音が聞こえた。

扉を開けてみると

出雲へのドライブの帰り松江で買った彼専用の『出西窯』の湯呑が割れている。

静香は嫌な予感がしたので彼へすぐにメールを打った。

いくら待ってもメールを返信されることはなかった。

 

その頃、慎一の実家へ病院からの連絡が入った。

頭蓋骨と左肩の骨折及び全身打撲。

現在、左肩骨折手術中だった。

慎一の両親と妹は京都の救急指定病院へ急いで向かった。

手術は5時間以上かかる大手術で

その日、慎一の意識は戻らなかった。

主治医から

幸いにも頭蓋骨は線状骨折とのことで、

画像所見上、今のところ脳組織へのダメージはない状況だが

しばらく経過観察が必要と言われている。

肩の骨は金属板と骨接合材のネジで固定されている。

 

顔や肩に包帯を巻かれ、手足に絆創膏を貼った慎一が眠っている。

枕元には画面が割れて機械部が破損している携帯電話が置かれている。

電源を入れてみたが全く作動しなかった。

その日は一度帰って、翌日の日曜日から母親が看病することとなった。

月曜日になっても眠ったままだった。

医師もそろそろ目を覚ましてもいいのですがねえと話している。

(つづく)

23.幼い兄妹(きょうだい)の依頼 3

趙の別荘の近くに一度停車して、サイドカーに格納しているドローンで偵察した。

別荘の壁は表面上木製で、実際は芯部分にセメントが入っている。

中にいる趙の部下は5名で、子供の姿がどこにも見つからなかった。

嫌な予感がしてドローンを赤外線モードに変えて

捜索範囲を広げたが掛からなかった。

樹海の中に熱源らしきものは見えるが、小動物のものしかなかった。

翔は、別荘へ忍び込み1人1人と捕縛していった。

両手両足を布ガムテープで縛り、目部分と口部分も布ガムテープを貼った。

3人までは順調だったが、残り2人で見つかってしまった。

そのうち1人は簡単に倒せたが、

両手に長い針らしき形状の武器を持つリーダーの男とは壮絶な戦いになった。

長い針を目の部分やバトルスーツの縫い目部分を狙ってくる。

いくらゴーグルが超硬質ガラスでも限界があるかもしれない。

男が両手で襲ってきた時にその両手を掴み、

巴投げの要領で片足を使い投げ捨てると同時に両手のツボを押さえ決めたまま、

空中にいる男の腹部に両脚をのせそのまま地面へと落ちた。

男は腹部に翔の体重が掛かった強烈な踏付けを喰らい、苦しみ転げまわっている。

そっと後頭部へ手刀を入れ気絶させた。

リーダーらしき男も同様にガムテープで処置し、

先に倒した1人の口は自由にしたまま、

子供達と牙という子供達のお父さんの行方を聞いた。

父親の方は、地下倉に幽閉し拷問したためもう死んでいるとのことだった。

ここで子供たちの父親の職業は『仕事人』であることが判明した。

趙に楯突く勢力のボスに対して秘書(仕事人)を使い長年殺してきているらしい。

子供は3日前にいなくなって見つかっていないらしい。

何も持っていないので死んでいるのではないかとのことだった。

 

別荘から出ると目の前に子供たちが立っていた。

声を掛けても返事が無い。

こちらに来いとでも言うようにフラフラと歩いていく。

二人についてくと30分も歩いた頃、木の根元に眠る子供たちを見つけた。

翔が急いで駆け寄り、脈を取ったが殆ど触れていない。

急いでサイドカーに二人を乗せて救急病院へ向かった。

脱水症状と低体温状態であった。

病院へ運び込み何とか二人は命を取り留めたが予断は許さない。

(つづく)

29.異動の朝

朝早く2階の客間で慎一は目覚めた。

台所からいつもの音が聞こえてくる。

下りていくと静香さんが忙しそうに二人分のお弁当を作っている。

「おはよう」

「あっ、おはようございます。今日は一日いい天気みたいです」

静香さんは慎一の方へ一瞬含羞(はにか)むような表情を浮かべ笑った。

顔つきが少し明るく見える。

慎一はほっとした。

少しすると美波ちゃんが下りてきた。

美波ちゃんは夏休みの仕上げとして他校との練習試合があるらしい。

今日は『この時計で絶対に勝つ』とはりきっている。

 

やがて3人のおだやかで楽しい朝食が始まった。

『ほかほかの仁多米』

『アラ汁』

『ダシ巻卵』

『鯵の一夜干しの焼き物』

『刻み野菜の浅漬け』

『岩のりの自家製佃煮』

普通の家の朝食風景。

本当にこの家の料理は美味しかった。

優しい味付けで身体の内から力が湧いてくる。

ふと慎一は早くも今晩からのご飯に味気無さを感じた。

 

試合は昼前からのため、慎一と同じような時間に家を出るようだ。

「男の人と一緒に出るなんて、なんかお父さんと一緒みたいでうれしい。

 お弁当も一緒だし、『お父さん、いってらっしゃい』ってね。

 じゃあ、いってきまーす。試合結果はメールで知らせるね」

「まあまあ、慌ただしい子ねえ。でも本当にうれしそう」

「ああそうやなあ、こんな感じなんよなあ。きっと家庭って」

「じゃあ、慎一さん、いってらっしゃい」

「うん、静香さん、いってきます。帰る時は必ず連絡するから」

「はい、待ってます。お気をつけて」

慎一は米子駅まで行き伯備線に乗り岡山へ向かった。

岡山から新幹線に乗り京都まで一本でドアツードアで4時間もすれば着いた。

新幹線の中で食べた静香さんのお弁当は本当に美味しかった。

冷たくなってもしっかりと味が付いており食べ終わるのが惜しかった。

空になった朱塗りのお弁当箱をハンカチに包み鞄に入れた。

15時に引越業者が来るので駅前の社宅に向かった。

その夜美波ちゃんから『今日も勝利、おじさんもきっと勝利』とメールが入っていた。

 

翌日、支店長へ挨拶に行くと

『君には期待している。是非とも我が支店をトップにしてくれ』との一言だった。

職場に顔を出し挨拶をしてチーム員と打ち合わせ、

またもや慌ただしい日々が始まった。

毎日多くの得意先への挨拶と資料の読み込み、資料持ち帰りの日々が続く。

たまに送られてくる美波ちゃんや静香さんのメールを

読む時だけが慎一の憩いのひとときだった。

 

慎一を呼んだ繊維会社の支店長は知らない人だった。

神戸支店で相当に実績を上げた人らしく、

慎一のことを支店で色々と聞いてきているため、何かにつけて直接連絡が入る。

『京都の商売が初めてで不安で一杯だが絶対成功させなければならない』と力説している。

それは慎一も同じだったが、

大切な会社なので何とか励ましながら夜討ち朝駆けで働いた。

慎一は新しい提案として『米子市の浜絣』を京都で紹介してみようと考えていた。

京都には浜絣を扱っている会社はなく、この会社だけが扱うことで

『普段着の絣生活』という感覚を京都市民へ紹介できるのではという骨子だった。

着物の本場である京都ではちょっとやそっとでは注目されない。

昔から京都とも関係のある山陰地方の一地方、米子の名産品は珍しいと考えた。

これがうまくいけば米子に早く帰れるかも・・・

 

土日も時間が出来れば、横になって寝ている日々が続く。

京都産の食材は美味しかったが、残念ながらさざなみに匹敵する小料理屋はなく

味付けも慎一には合わなかったため、味気なくご飯を詰め込んで帰る日々だった。

12月もまたもや人間的な生活をできる時間は全く無かった。

だが、慎一のチームのがんばりで融資課は徐々に成果があらわれつつあり、

繊維会社も少しずつうまく行き始めているとの連絡があって慎一もほっとしていた。

(つづく)

28.慎一の約束、静香の願い

美波ちゃんが二階へ上がってしばらくして、静香さんが風呂から上がってきた。

いつのまにか美波ちゃんの部屋からの音も消えている。

「あれっ?美波がいたのだと思いましたが」

「うん、少し話しておやすみなさいって上がっていったよ」

「そう、最近相当にクラブが厳しいみたいで疲れているのよね。

 今の時間にはもう眠ってしまっているの。大丈夫かしら」

「大丈夫、今度こそ優勝とか言ってるから待ってようよ」

「そうですね。しかしあの子はあなたといるようになって本当に明るくなりました」

「それは良かった。安心なオッサンだけでなかったんやなあ」

「それは違います。あなたは私達親子にとってとても大切な人ですよ」

「静香さん、こんな僕やのにそう言って貰ってありがとう、

 こんな風にして貰って何もお返しでけへんのが悲しいな」

「ううん、私達はたくさんの物を頂いてますからこれ以上は何もいりません」

 

ふと、二人の視線が絡み合った。

テレビがニュースを流しているが全く聞こえてこない。

どちらからともなく魅かれあうようにそっと寄り添った。

静香は慎一の肩に頬を寄せている。

静香の頬から細かい震えが伝わってくる。

慎一はその細い肩を抱き寄せた。

その肩の薄さが慎一に愛おしさを感じさせた。

しばらくそのままじっとしている。

 

「静香さんには悪いけど、旦那さんとは勝手に話をしたよ。

 あなたに代わって僕が静香さんを必ず幸せにするって」

静香の息を飲む音が聞こえてきた。

「だけど、今は美波ちゃんが心配やから、もう少し時間はかかると話したよ」

 静香の身体からこわばりが取れてきている。

「わたしのような女でいいの?後悔しないの?」

「静香さんやからこそ、

 あんなに可愛い美波ちゃんを育てた静香さんやから好きになったんやと思うよ」

「こんな気持ちになったのは初めてでどうしていいかわからないの」

「僕もこんな気持ちになったのは初めてで断られたらどうしようかと迷ってたんや。

 今回の転勤が無ければ、こんなことを言えなかったかもしれへんと思った」

「それは私も同じ、あなたと知り合って私は、

 今まで『美波と二人で一緒に』とすごく無理をしていた自分に気がついたの。

 でもあなたは転勤族だからいつかはいなくなる人と自分にずっと言い聞かせてたの」

「あのままなら美波ちゃんを傷つけたくないからきっとまだ言わなかったと思う。

 何と言っても、まだ多感な高校生だし時間が必要やから」

「私はあなたを本当に待ってていいの?信じていいの?」

「こちらこそ待ってて欲しい。必ず帰ってくるから、そして君と」

 

慎一は静香の頤(おとがい)を軽く上げた。

そっと閉じられた瞳に涙の跡がある。

「私に勇気を下さい。明日、朝、あなたを笑って送れるように」

慎一は静香の震える唇に唇を重ねた。

静香の両手は迷うように揺れていたが、やがて慎一の背中に回された。

慎一も静香も何もかも忘れたように重ねつづけた。

二人の愛情が激情からおだやかなものに変わった時、重ねた唇は離れた。

静香は慎一の胸に頬を預け、ずっと手を握り合ったまま時間が過ぎて行った。

(つづく)

22.幼い兄妹(きょうだい)の依頼 2

理恵子がシャワーを終えてスキンケアをしている。

しばらくすると電話が鳴った。

「はい、わかりました。もうすぐ伺います」

鏡台の椅子に座りながら子供の写真を見て泣いている。

おもむろに鏡台の引き出しから薬剤を出して含んだ。

そして部屋を出ていった。

 

ボスの趙に鞭で打たれながらセックスを強要されている。

「うちの人と子供たちは無事なんですか?いつ会えるの?お願いします」

「うーん、も少し待つ あるね」

「もう2週間も会えていないのです。お願いします」

「ははは、お前は子ともをうんたとは思えないくらいくあいいいね。

 お前のたんなのきぱ、いや孫には勿体ない女あるね。そうそうもっと鳴くよろし」

「お願いします。子供に・・・」

「しかし、おまえのたんな 許せないねえ、わたしのからた けかさせたね。

 地下て、反対かわになけられて いたかったあるね。許さないね」

「許して下さい。お願いします・・・」

「お前が もと私に奉仕したらすくに会わせる あるよ ははははは」

 

あまりにひどい話で百合に聞かせられないので概要をまとめるとこうなる。

理恵子さんは住み込みで働かされており薬剤(覚醒剤?)を服用している。

理恵子さんの夫は秘書の一人で通称『牙』と呼ばれている。

子供たちは2週間前からどこかに預けられており面会させて貰っていない。

趙はどうやらこの前の事件で地下道を逃げたボスであり、

その時警官と戦って趙を逃がした秘書は、理恵子さんの夫『牙』だというのだ。

その秘書『牙』も今はこの建物内にはいない状態だった。

子供たちの行方を探ることが急務と判断し、

ドローンに搭乗させているクモ大助を出動させ、ボスの部屋の外側に待機させた。

 

理恵子さんが部屋を出て行ったあと、趙はシャワーを浴びてベッドで眠っている。

携帯が鳴っている。

「何 ある?」

「ことも いなくなった? それはそうと きぱは しんたか?」

「ならいい。こともは放っておけぱいい。とうせ ふちのちゅかいたから死ぬあるね」

「おんなはこちらて処理するある。とうせくすりつけね」

『富士の樹海』と言われても非常に広過ぎて見当もつかなかった。

 

急いでRyokoに趙名義の建物を検索させた。

静岡県富士市から富士山へ向かうスカイライン途中の別荘がヒットした。

翔は、百合に事務所で状況を確認してもらうこととして急いで別荘へ向かった。

バトルバイクにサイドカーを付けて多くの道具も入れて発進した。

目的地まで約120キロ、

現段階でスピード違反をするわけにはいかないので法定速度上限ギリギリで走行した。

やがて目的地に近づいている表示がヘルメットに送られてくる。

理恵子さんは静かに眠っているようだ。

(つづく)

27.美波のがまん

夕食が終わり二人でゆっくりとお茶を飲んでいる。

静香さんが仏間に入っていき戻ってくる。

「慎一さん、美波が来る前だから二人の時の名前で呼びます。

 京都に行ってもがんばって下さいね。

 京都もこちら同様に苦労するところがあると聞きますので

 無理をしないで身体を大切にして下さい。

 疲れたらいつでもこちらに食べに戻ってきてくださいね。

 さざなみはいつでもあなたのために開けておきますので」

静香さんからは、

浜絣を使った青系と茶系の『手作りネクタイ』2本がテーブルの上に置かれた。

「私が愛用している浜絣を使ってみました。

 いい肌触りですから是非とも使ってください」

「ありがとう、これは驚いた。

 手作りネクタイは初めて。

 これは出社の日に締めます。

 大事に使わせて貰います」

 

しばらくして、美波ちゃんが下りてきた。

「お母さんは色々とできるからいいな。美波も必死で考えたよ」

美波ちゃんからは、三人が写った写真、

『テニス大会』と『花見』の時のものが裏表の状態で写真立てが作られている。

例の小物店で写真を封入したものを作ってもらったようだ。

にっこり笑う静香さんとひまわりのように明るく笑う美波ちゃんが写っている。

やはりこの笑顔が慎一の原動力であったことが再認識された。

 

しばらくして、慎一が『静香スペシャル』と『美波スペシャル』を作り始めた。

美波ちゃんがクッキーを焼いていたのでちょうど良かった。

二人はお互いのコーヒーを覗き込みながら

「美波スペシャルって、こんな感じなんだ・・・

 へえ、甘い物好きの美波にはちょうどね」

「そうよ、静香スペシャルだって・・・

 うーん、大人の感じがすごい、私にはまだまだ早いかも・・・」

「そうね、でもお母さんは美波スペシャルも好き」

「そんな、二つともなんてずるい。これは美波だけのもの」

「わかったわよ。だったら、これはお母さんだけのもの」

とワイワイ言い合っている。

慎一は二人の仲の良さが嬉しかった。

もう10数年、二人だけでこんな風にお互いをかばいあって生きてきたのだと思うと

羨ましくもあり、それが二人だけだったという寂しさも感じた。

 

慎一はこの7月に開始した「ショートメッセージサービス」のことを話題に出した。

二人は知らなかったようで早速加入するとの話になった。

アドレスを二人に教えて

「京都に行ったら、この連絡ができるから、電話が出れなくても安心やね」

「そうね、こんなものができたのねえ。昔は家電か公衆電話だけだったのに・・・」

「時代はドンドンと変わるということやなあ。

 もうじき写真やビデオも送れるようになったりしてなあ」

「おじさん、それはちょっと無理じゃない?

 でもそうなればいいなあ。美波が優勝した瞬間の写真を送れるから・・・」

「まあ、大胆なことを言う子ねえ。期待せずに待ってるわ」

「もう、すごくがんばってるんだから・・・」

「そうや、そうなったら楽しみやな。

 でも美波ちゃんが、精一杯がんばって納得できる結果だったらいいんちがう?」

「そう言ってくれるおじさんが大好き。うん、自分が納得する結果を出す。

 どちらにしろ、おじさんにはメッセージを送るね」

「うん、待ってるで。楽しみや。応援に行けんのは残念やけど許してな」

「ううん、おじさんは京都でがんばってると思って

 美波もがんばるから応援していてね」

「了解、毎日応援しておくで」

と大いに話が弾んで今後が楽しみだった。

遠くにいても近くで感じることができる時代が近づきつつある・・・

そんな予感を感じつつ二人を見ていた。

 

美波ちゃんが風呂に入り、続いて静香さんがお風呂に入った。

その時、美波ちゃんが涙ぐみながら

「おじさん、美波、今日はずっと我慢してたの。

 笑っておじさんを送りだすんだって。でももう無理。

 おじさん、今までありがとう。

 おかげで泳げるようになって嬉しかった。

 勉強もよくわかるようになって嬉しかった。

 この1年半、美波の一番好きなお父さんみたいですごく楽しかったです。

 美波は本当のお父さんの記憶がないので無理言ってばかりでごめんなさい」

「いや、おじさんも本当の娘みたいに感じてた。娘を持っていないのにね。

 二人とも同じやな。また帰って来た時は同じようにお願いするな」

「うん、必ず帰ってきてね。美波、待ってる」

「わかった。待っててな」

「お母さんには約束したから今話したことは内緒ね。じゃあおやすみなさい」

(つづき)

26.いつもの音

静香さんが朝早くから来て、まだ残る荷物のまとめと部屋の掃除をしている。

30日昼前に引越業者が来て昼過ぎには搬出し終わった。

部屋は引っ越してくる前に戻って行く。

自分の思いは元には戻っていない。

ほんの1年半と短かった期間だが、

今までの転勤と違い思い切りの悪い自分に気が付いた。

慎一は思い切るようにベランダから見える大山の姿を目に焼き付けて

静香さんと一緒にエレベーターに乗った。

今晩に静香さんと美波ちゃんにご馳走しようと

手元の鞄にはコーヒーのセットを入れている。

 

後藤家までタクシーで移動し、明日朝9時30分頃に来てもらうよう予約した。

美波ちゃんは、今日が夏休み最後のクラブのためまだ帰っていない。

慎一は静香さんへ断り、長い間仏壇に手を合わせている。

静香も少し後ろに座り手を合わせた。

彼がこの家に来るようになって今では慣れた風景となっている。

静香は彼が何かを呟きながら手を合わせていることに気がついた。

 

静香は彼へお茶を入れて、居間でゆっくりと京都の話をした。

自分は修学旅行以来で全く知らないことや

神社、仏閣が好きな慎一にはすごく楽しみなのでは?とか

美波と一緒に遊びに行った時は案内してくださいねとか

非常に多弁ないつもと違う自分に気がついた。

 

慎一は慎一で静香へ山陰で色々と行った時の思い出とか

神社や神話や食べ物の話とかをずっとした。

彼自身もいつもと違う自分に気がついた。

 

二人は目を合わせて笑った。

そこはいつもと一緒だった。

二人はいつもと同じにいつものように今日は過ごそうと決めた。

 

静香が夕食作りに台所へ立った。

いつものように

リズミカルな包丁の音

コンロを付ける音

菜箸で混ぜる音

食材が焼けた音

食材が煮える音

様々な音のあることを今日初めて意識した慎一だった。

いつもこの家にはこれほどの種類の音があった。

母親の出すそれらの音とは異なっているにも関わらず、

そのいつもの音が、

慎一へ家庭の暖かさと

ずっと長い間彼女と一緒にいたような錯覚を覚えさせるのかもしれない。

静香さんが慎一へお風呂を勧めてきた。

ゆっくりと湯船に浸かる。

自然と『あーあ』と伸びをしてしまう。

こんなまだ陽があるうちに風呂に入るのは久しぶりでその良さを再確認した。

そのうちに美波ちゃんの帰ってきた声が聞こえた。

慎一は用意された男物のパジャマを着て居間へと向かった。

 

今晩の献立は

『白イカ、タイ、アワビ、岩ガキの刺身盛り合わせ』

『ハマチとヒラメのカルパッチョ バルサミコソース添え』

『タイの塩焼き』

『タイの兜煮とアラ煮ソーメン』

『アワビ、岩ガキの酒蒸し』

『小豆雑煮』

全て慎一の大好物だった。

ビールを飲んで、その後冷酒を飲む。

慎一はゆっくりと噛み締めて、各食材の味を確かめるように味わいそして飲み込んだ。

『こんな美味しいご飯を毎日のように食べていたんだなあ』

と今更ながら驚きを感じた。

 

美波ちゃんが食べ終わったので、

慎一は酔っ払う前に二人へプレゼントを渡した。

「ああ、これ欲しかったの、ありがとう。すごくかっこいい」

「まあ、こんな素敵なものを・・・私の誕生石・・・とても嬉しいです。

ありがとうございます」

「うん、喜んで貰えて良かった。

 二人からいつも力を貰えたからがんばれた。そのお礼やで」

「ううん、私こそおじさんに色々と・・・ありがとう、後でまた下りてくるね」

「わかった。まだ飲んでるから」

美波ちゃんが2階へ上がって行った。

静香さんは片付けものをしながら食器を洗っている。

(つづく)

25.それぞれの思い

家に帰り1人になると静香の心は千々に乱れた。

彼の前では気が動転してボーとしてしまった。

彼は転勤族と覚悟はしていたものの実際に経験すると余りにも唐突過ぎた。

あと半年、あと1年あればと思う心もあるが

きっといつであっても唐突に感じるものなのだろうとも思った。

美波に話す前にまず自分が何とか納得しなければならなかった。

この1年半、特にこの1年は本当に楽しかった。

特に今年の花火大会での彼の肩の温もりを思い出す。

自分の心が夫に会う前に戻ったかのようだった。

今まで二人でがんばって生きてきた親子への神様からの贈り物と思うしかなかった。

 

静香は美波のショックが心配だった。

常日頃、『転勤族だからずっといるとは考えないで』と伝えてはいたが、

まさかこんなに早いとは思ってもいないのではないかと・・・

学校から帰ってきた美波に彼の転勤のことを伝えた。

最初、ポカンとしていたがすぐに2階へ上がっていくとしばらく下りてこなかった。

もしかしたら母親を困らせたくないと思ったのかもしれない。

 

 しばらくして美波が下りてくると

「おじさん仕事をすごく出来る人だから、きっとみんなが必要とするんだねえ。

 喜んで見送るしかないね。それに京都だったら電車1本だから近いし」

「そ、そうね。きっとみんなに必要とされてるのよね」

「今度の土曜日はおじさんを送る会をするんでしょ?」

「そうね。そうしましょう。目一杯美味しいものを食べて貰って、

元気をつけて送り出しましょうか」

「お母さん約束ね。絶対に泣いちゃ駄目だからね。美波も我慢するから」

 

静香は美波の成長に目を見張った。

こんな大人の会話が出来るとは考えていなかったからだった。

彼は今頃毎日遅くまで仕事をし、家に帰れば引越準備をしているはず。

静香は毎夜さざなみに来る彼のために、彼専用のご飯を作って送り出すことに決めた。

あと1週間しかないが精一杯美味しいものを作ろうと考えている。

 

慎一は空いた時間を使って『高島屋』へ入った。

静香には、誕生石を使った『真珠とペリドット帯留め』と

「芥子色とシルバーの伊賀組紐正絹帯締め サードオニキスの飾り付き」を、

美波には昨年発売され欲しがっていた『流線型のGショック、Gクール』を、

それぞれ包んで貰った。

京都とは言っても大して遠いものでのないし、いつでも帰ってくる意識はある。

携帯がメール機能を開始したことを知り、慎一は携帯ショップへ寄りその手続きをした。

(つづく)