「次は米子、米子」
慎一はひとつ背伸びをして手元にある人事異動通知書を見た。
人事異動通知書 京都支店融資部 日下 慎一 殿 関西中央銀行本店 人事部長 清水 英雄 貴殿を平成10年4月1日付で山陰支店への異動を命ずる。 以上 |
心の中の何かが記憶の蘇ることを邪魔していると感じている。
その部分が明確にならないと次の人生が踏み出せないとも思っている。
ただ焦るつもりは全くなかった。
まあ山陰の知識が無い以外、業務に支障は無いのでじっくりといく予定であった。
部屋は偶然、前と同じところが空いていたようだ。
部屋は覚えていないが、ベランダから見えるあの山にはうっすら記憶があった。
新しい配属先である『預金課』へ挨拶に行くと、
皆は『お久しぶりです』と言ってくれているが、
慎一には全く新しい顔の人達で戸惑いも感じている。
新しい知識とスキルを覚える毎日で、
無理をしないようにしていても自然と無理が掛かってきている。
朝に家を出て、夕方に弁当を買って帰っては寝る毎日だった。
ただ新しい業務は面白く、色々と深く考えることができ
新しい提案も考えるようになれそうな予感が出てきている。
思い出そうとする努力さえしなければ、ただ特に不満もなく毎日が過ぎていく。
毎日仕事で埋めていく慎一の脳裏からは
1月に頭痛の中で会った静香と美波の記憶は完全に消えていた。
米子市が桜色に染まるある土曜の朝、
湊山公園で桜を穏やかな気持ちで眺めている。
中海の水面は桜の花びらに染められており、
水鳥公園の鳥達も花見をしているのか、
ときおり水鳥の声らしきものが響き渡る。
旧賀茂川沿いの白壁土蔵を背景とした桜並木も見もので多くの人が散策している。
頬をなでる風も気持ちよく、すこぶる気分が良かった。
去年もきっとこんな風に桜が咲いていたのだろうなと思うと惜しい気がしてくる。
そうすると少しずつ頭痛に襲われるため
思考を停めて風に揺れる桜に見入った。
すべてがこんな状態なので機械的に仕事をしているのが一番良かった。
5月の連休は、27日28日30日1日を休めば長期となるが、
預金課員は無理で皆で調整し休暇を取り合った。
慎一は特に用事はなかったので1日に休暇を取り連続5日間の休暇とした。
全体的に短いため神戸には帰らずにこちらでゆっくりと過ごすつもりだった。
30日の夜は、米子市の繁華街にでも出てみようと考えていた。
(つづく)