仮祝言が無事終了した翌日に翔と百合はバイクで東京まで帰った。
事務所に着いてしばらくは嬉しくて翔は仕事にならなかった。
でもそんなことも言っていられない依頼が立て続けに来たため普通の生活に戻った。
そんな時、
「夏休みを利用して婚約旅行をしないか」と葉山から言われたと百合から話があった。
まだ学生に海外は派手過ぎるという事で
場所は国内で山梨県富士五湖の一つ河口湖の館林家別荘が用意された。
今どき海外旅行が派手とは思わないが、
まだまだ翔の稼ぎが少ないためそんな贅沢は気が進まなかった。
館林としてはそういう翔の気持ちを忖度したと思われた。
新宿の事務所を朝早く、
バトルバイクにサイドカーを繋げ中へ衣服などを詰め、
いつものようにタンデムでぴったりとくっついて出発した。
一度、葉山の百合の実家へ顔を出し挨拶をしてから再出発した。
新湘南バイパスの藤沢ICから上がり、
海老名JCTで東名高速に入り御殿場ICを降りて、東富士五湖道路へ向かう。
富士吉田ICを降りて河口湖東岸を走ると河口浅間神社が見えてくる。
百合から「そろそろ着くわよ」との声が聞こえる。
ここまで来たらもう目の前らしいので街のスーパーマーケットに向かう。
昼前のため客で込んでいるが、百合は食材の吟味に時間を掛けている。
米には富士吉田市特別栽培米『ミルキークイーン』
牛肉は富士山の麓で育てたジューシーな『富士山麓牛』
豚肉は脂身の甘さが赤身に溶け込んだ「山梨レッドポーク」
鶏肉は自然の中で約120日間、放し飼いにより歯ごたえのある美味しさの「甲州地鶏」
その他、多くの地元で作られた有機栽培の土の付いた野菜を買い込んだ。
日本酒は「七賢」、「七賢スパークリング」
ワインは『さくらんぼのワイン」と「シャトーブリヤン2013」を購入した。
地ビールはすぐに飲めるように冷えた「八ヶ岳地ビール タッチダウン」をたんまりと買った。
館林家の別荘は『河口浅間神社』と『母の白滝』の間の道から少し入った高台にある。
突き当たりの鬱蒼とした林の中に建っており外面は鉄筋コンクリートの洋館だった。
窓からは黒々とした富士山を映す濃い緑に染まる河口湖が目の前に広がっている。
百合の話では『信玄公の隠し湯』から温泉が引かれており「天然かけ流しの風呂」とのことだった。
観光地からは離れた奥まった場所で他人の目の入らない静かな環境だった。
色々としているともう太陽は少し傾いてきている。
百合が豪華な樫の木の扉を開けて入っていく。
それに続き、荷物を一杯に担いだ翔が入っていく。
既に空調は動いていたようで、
部屋の空気もしばらく使わなかったようなカビ臭さも一切無かった。
二人だけの旅行は初めてだった。
事務所ビルに生活用の部屋はあるが、
警備用のロボット犬「ロビン」が歩いているし、
事務所にはアスカが常に待機している。
二人ともなるべく気にしないようにしているが
やはり彼らの目が気になって少しは遠慮している。
しかし、両一族の重要人物である二人には常に両一族の目が光っている。
本当の所は二人きりとは言えないが十分に二人だけの時間だった。
翔は百合が忙しげに荷物整理をしている間、
火の入っていない暖炉の前のソファーに座ってテレビのニュースを見ている。
いつも見ている番組とは異なる地元の番組が放送されており、
地元情報を中心に穏やかな毎日のニュースが流れている。
整理の合間に百合が「八ヶ岳地ビール タッチダウン」をテーブルに置いてくれている。
ほど良く冷えた瓶の栓を抜くと『シュッ、ポン』と心地良い音がした。
冷えたコップに注ぐと小麦色の液体と真っ白な泡の二層が出来ていく。
とりあえず液体7、泡3の割合の1杯目ができた。
ちょうどその時に百合が居間に顔を出した。
「翔さん、荷物の整理は終わったわ」
「お疲れ様。少し休もうよ。今、美味しいビールが出来たよ」
「私、もうお酒は大丈夫だから少し飲むね。ふう、暑い」
百合は翔の隣に座った。
翔は急いで2杯目を慎重に作った。
「綺麗なビールね」
百合が嬉しそうに手に持ってコップの壁面を立ち上る泡を見つめている。
「乾杯」
「乾杯」
二人は一緒に飲んだ。
『ゴクッ』
とても美味しかった。
百合の最高の笑顔が翔へ向けられた。
でも初めて飲んだアルコールだったため
初めて酔ったようでしばらくすると翔にもたれてきた。
「少し休ませて」というのでしばらくそのまま百合の寝息を聞いていた。
このビールは、八ヶ岳の山麓からの湧く天然水とドイツの生酵母を使用して、難しいといわれる「デコクション法」で一か月以上熟成して製造されている。
さすがビールの本場ドイツの酵母を使用しているだけあって、さわやかな咽喉ごしと天然水の甘み、そしてほろ苦さが舌に直撃してきた。
ビールで咽喉を潤してしばらく休んだ二人は、もう夕方なので別荘付近を散策した。
先ずは「河口浅間神社」へお参りした。
この神社のご祭神は浅間大神(あさまのおおかみ)の木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)で、起こりとしては貞観6年(864年)の歴史的な富士山大噴火の翌年、勅命によって富士山の神様である浅間大神を祀り、鎮火祭が行われたのが始まりである。
境内の案内板に遥拝所(ようはいしょ)とある。遥拝所とは遠く離れた場所から神仏などを拝むところという場所との事。由来としては2019年の3月、河口浅間神社のご神体である富士を高台から敬拝できるよう山林を整備し、鳥居を立てて遥拝所としたとある。二人で登ってみると30分ほどかかった場所に富士山を背景に立派な鳥居があった。あまり人もこないので二人でしばらく並んで美しい富士山を見つめた。
夕飯は、百合が自慢の腕を揮った。
食前酒として、淡い桜色の冷やした少量のロゼワイン『さくらんぼのワイン』
メインのワインは、『シャトーブリヤン2013』
厚さ2センチの『富士山麓牛』400gのステーキ。
たっぷりのサラダと具沢山のコンソメスープ。
炊きたて『ミルキークイーン』のおむすびが添えられている。
『さくらんぼのワイン』は、山梨県産の甲州ぶどうとマスカットベリーAのぶどうを主原料にしたロゼワインで、サクランボの実を入れ、ほのかなサクランボの香りとフルーティーな甘さで冷やして飲むとほのかに春が感じられるものだった。
『シャトーブリヤン2013』は、ワインの醍醐味ともいえる長期熟成を経て味わう仕上がり1946年からのベストセラー商品らしくやわらかな果実の風味が落ち着きを感じさせた。
『富士山麓牛』は、赤身そのものの旨味が濃く、噛めば噛むほど細かく交じり合った脂身の甘味が口中でほどけてくる。
ミルキークイーンのおむすびは、この米特有の甘さといい、香りといい非常にバランスの取れたお米で、特に空気を入れて優しく丸められたおむすびは最高に美味しかった。
百合はビールに続きワインも初めてだったため、またもやしばらく翔の胸で眠った。
酔った頬は赤く可愛い寝顔でいつまでも見飽きなかった。
その夜は百合をそっとベッドへ寝かせて、隣のベッドで眠った。
ふと夜中に目を覚ました百合は、酔って完全に眠ってしまったことを謝ってきた。
いつも冷静な百合には珍しいことだが、
何日も前から二人だけの旅行に舞い上がってしまい色々と準備を考えてあまり眠れてなかったようだった。
そっと翔のベッドへ入ってきた百合とキスをして手を繋いで朝まで眠った。
翌日は二人は早朝に目覚め、
冷たい山の空気を吸い込みながらいつものトレーニングをした。
今日は河口湖湖畔を散策しようと計画している。
朝食後バイクを駐車場に停めて二人は手をつなぎながら色々と見て回った。
観光客相手のお土産用のお店が並んでいる。
そんな中にレンタサイクルの店があった。
さっそく二人で湖畔を1周することにした。
河口湖は海抜839m、湖の深さは最深部で25m、周囲20kmで、
1時間もあればゆっくりと回ることができた。
湖水面からはコイ、フナ、ワカサギ、ブラックバスらしき魚影が映っている。
湖の中にある富士五湖で唯一の島「うの島」がよく見える。
湖面を渡る風にそよぐ百合の髪と翔へ向けられる笑顔が輝いている。
この笑顔がいつまでも続けばいいなと翔は感じた。
レンタサイクルを返した後、
『カチカチ山ロープウェイ』で天上山へ登りそこの茶屋で喉を潤すこととした。
実は天上山は『童話かちかち山』の舞台となっている山で、泥舟を浮かべたとの話がある。
茶屋でフレッシュジュースとケーキを食べながら
少し汗ばんだ首筋や頬を冷やし河口湖と富士山の絶景を楽しんだ。
湖面を見ると遊覧船やスワンボートが見える。
湖畔の「河口湖遊覧船アンソレイユ号」の乗船口へ向かった。
フランス語で「日当たり良好!」と言う意味の名を持つこの船は、
南欧のレイクリゾートをイメージして造られた。
二人は2階席スペースで雄大な富士山や360°のパノラマビューを楽しんだ。
船内放送では『逆さ富士の名勝地』と説明されており、
翔は別荘の窓から見えた風景を思い出した。
その後、二人は色々な観光スポットを回った。
河口湖音楽と森の美術館
まるでヨーロッパに来たかのような優雅な世界が広がっている。庭内には、約720品種1,200株の薔薇が鮮やかに彩るローズガーデンや世界的に貴重なオルゴールや自動演奏楽器が展示されているホールなどがあり、中世ヨーロッパではこんな生活だったのかを想像できた。また海難事故で沈んだ「タイタニック号」に乗せる予定だった自動演奏楽器の演奏も美しく、時を超えて蘇るその音色は現在でも色褪せなかった。庭内には王侯貴族のような優雅なドレスをまとって撮影をしている観光客が多く楽しそうに撮影していた。
河口湖猿まわし劇場
日光サル軍団にも負けない芸達者な猿の専用屋内劇場で、入室前の通路には出演する猿もいるが、目を合わせない様に注意があった。二人はお猿の芸を初めて見てその人間と変わらない演技に感心していた。
公演後は多くの役者猿達がお客を見送りをしてくれている。
夕方に別荘へ帰ると
百合が食事の用意をする間に『信玄公の隠し湯』から温泉水を引いているお風呂へ入るように言われた。
岩で固められた浴室で小さな穴より温泉が浴槽へ流れ落ちている。相当な水量だった。
水質としては、無色透明、無臭で肌に優しい柔らかく肌に優しかった。
ゆっくりと入っていると百合から「夕食出来ましたよー」と声が掛けられた。
今晩の献立は、地元の名物「ほうとう鍋」だった。
居間の暖炉の上に乗せられ、プーンと味噌の匂いが立ち昇っている。
途端にお腹の虫が騒ぎ始めた。
今日のお酒は、日本酒で有名な「七賢のスパークリング」だった。
翔自身もあまりお酒を飲まないので軽くて良かった。
百合といえば『もうお酒はこりごり』と少し翔のグラスから飲んだ程度だった。
やがて暖炉の上の大きな鍋が目の前に置かれる。
薄く広いほうとうと肉、かぼちゃ、ニンジン、キノコ、里いも、長ねぎ、油揚げが味噌味でまとめられている。実はこの別荘の管理人から仕留めた野生のイノシシの身を貰ったとのことで、いつもの豚肉ではなく野趣溢れるほうとう鍋になっていた。
二人ともお腹一杯に食べて、ゆっくりとコーヒーを飲んで音楽を聴いていた。
やがて百合が『今からお風呂へ入ってきます。お部屋で先に休んでて下さい』と居間を出て行った。