ある夜、美波は土曜日のプールへの準備をしていた。
母には友達と皆生温泉プールで泳いでくると言っている。
「あなたがプールにねえ。どういう風の吹き回しかしら。水はもう大丈夫なの?」
と不思議そうに美波を見ている。
本当は、皆生プールへ日下さんと行くのだが、
お母さんには内緒で泳げるようになって驚かそうと考えていた。
美波が幼い頃、母とお風呂に入っていた時、
「ねえ、お母さん、お父さんはどうして死んだの?」
「お父さんは、大きなお船に乗っていた時、
大きな波が来て海に落ちて溺れちゃったの」
「ふーん。海ってこのお風呂より大きいの?」
「そう、すごく大きくて深いのよ」
美波は、そっと湯に顔をつけた。
しばらくすると、すごく息が苦しくなって、涙が出てきた。
お母さんが急いで美波を抱き上げた。
「どうしたの?」
「お顔つけたら、すごく苦しくて怖かった。きっとお父さんも苦しくて怖かったのね」
「もう、そんなことしちゃあ、だめよ、美波」
と母は泣きながら強く抱きしめてくれた。
それ以来、美波は水に顔をつけることが出来なくなっていた。
怖くて身体と心が硬直してしまうのだった。
母と3人で晩ご飯を食べて以来、夜は日下さんが来れば一緒に食べている。
日下さんとの晩ご飯は、家族で食べているようで楽しくて美味しかった。
きっとお父さんが生きていたらこんな食卓なんだろうなと感じた。
特に、母の笑顔を見ているのが好きだった。
美波が物心ついてから、母の楽しそうな笑顔を見たことがなかったからだ。
最初は、母の明るい笑顔に戸惑ったけれど、
『これが本来のお母さんの笑顔だ』と思うと嬉しい気持ちで一杯になった。
しかしその反面、なぜか少し寂しい気持ちもしている。
母が後片付けしている時、日下さんと二人で色々な話をしている。
高校時代は水泳部所属で県でも結構いいところまでいったと聞いた。
水が苦手な美波は、すぐにコーチをお願いした。
日下さんなら父のようだし、嫌らしい目で見るオヤジじゃないから安心だった。
「最近、運動不足で腹が出てきたかも、
格好悪いからちょっと鍛えとく」と張り切ってる。
そして、こっそりと携帯電話の番号も交換している。
毎日静香も帰るのが遅く、美波も部活動や塾で遅い。
美波を心配な静香は、まだ高校生には早かったが、
米子東高校へ入学した時のお祝いとして携帯電話を買っていた。
日下さんのマンションまで行くと、白いクルーザーから日下さんが顔を出した。
美波が乗り込むとすぐに出発した。皆生温泉プールまでは10分ほどだった。
美波がプールに行くと、すでに日下さんは入念にストレッチをしている。
水泳で鍛えていたせいか、お腹も出ておらず、スレンダーな身体をしていた。
美波がストレッチをしている間に日下さんは、プールに飛び込んだ。
クロールで25メートル、平泳ぎで25メートル、背泳で25メートル泳いで上がってきた。
日下さんは本当に魚のように早く綺麗に泳いでいた。
「ああ、もう疲れた。久しぶりやから身体が重い。まだちょっと本調子でないなあ」
「ううん、すごく早くて綺麗だった。私も日下さんみたいに泳ぎたい」
「すぐに泳げるようになるよ。テニスしてるくらい運動神経がいいんやから」
「うん。でも・・・」
慎一は美波ちゃんを呼んだ。
「大丈夫、大丈夫。そっとプールに入っておいで」
「はい」
美波ちゃんはプールに入ってきたが、顔色が蒼くなり息が早くなっている。
水泳が苦手とかのレベルでなく、水に恐怖している様子だった。
顔も強張り身体も硬直して足も一切動いていない。
慎一は水にここまでの恐怖感を持った人間にあったことはなかった。
このままではいけないと思い、
「美波ちゃん、先ず、あっちの浅い方に行こうか」
「はい、ごめんなさい。笑わないでね。怖いの」
「大丈夫、さあ、あっちへ」
慎一は浅い方へ美波の手をしっかり握り引いて行った。
美波ちゃんの身体から徐々に強張りが取れていく。
腰くらいの水位になって、やっと美波ちゃんへはにかみ笑いが戻った。
「じゃあ、美波ちゃん、まず、僕の手を持って身体を伸ばしてごらん」
「浮かないよう」
「大丈夫、僕が手を持っててあげるから」
美波は言われた通り、恐る恐る身体を伸ばした。
足がプールの底から離れた。
「じゃあ、次は少し顔をつけてごらん」
「そうそう、少しずつだよ」
「では、そこから上を向いてごらん、頭と肩を持っててあげるから安心して」
美波の肩と頭は日下さんの手で支えられている。
「では、少し深呼吸して、そうそう、
耳をつけると何か聞こえてくるから聞いててごらん」
「???」
美波は耳を凝らした。
確かに、水を通して色々な音が聞こえてくる。
シュンシュンという音に混じって、人の声のような音が耳に入ってくる。
最初は身体が強張っていてあまり聞こえなかったが、落ち着くにつれて、
なぜか優しく包んでくれているような暖かい音に変わっていった。
「ここはプールやからたくさん音がしてうるさいけど、
これが海だったら本当に静かで何もかも溶けていくみたいになって、
いつまでもこうしていたいと思うようになるよ。
それがきっと海の心だと僕は思っているんや」
じっと耳を済ませていると知らぬ間に水への怖さが少しずつ溶けて消えていく。
『海の心』その不思議な響き・・・
いつかその『海の心』を聞いてみたいと美波は思った。
(つづき)