はっちゃんZのブログ小説

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7.追憶2(改)

柔らかい桜色の風が神戸の街を包んだある日、

突然、

夢は覚め、

時は止まり、

世界がモノクロームに変わった。

 

「静ちゃん。落ち着いて聞いてね」

「はい、何があったのですか?」

「勇二君が・・・」と言って事務所の皆が泣き始めた。

社長が涙を流しながら、苦しい声で静香へ伝えた。

「勇二君が今朝早く発生した高波で海に転落し、まだ見つかっていない」

「えっ?・・・」

 

それからの日々は、静香にとっては

胸に抱きしめた美波の体温と息遣いしか感じない時間だった。

勇二の実家で葬儀は営まれた。

多くの人間が焼香をしていく。

静香は、美波をそっと抱きしめたまま、焼香に訪れた客へ頭を下げるだけだった。

時折、美波が『とーたんは?』と聞いくる。

そんな時は、ふと現実に戻り涙が止まらなかった。

勇二の兄優一へ嫁いできた玲子さんとは、

年も近く美波をよく可愛がってくれた。

『私も心強いし一緒に住みましょう』と言ってくれている。

静香は勇二が両親を深く愛していたことを知っている。

静香は、とうとう勇二が愛した両親を愛し続けるために実家への引越を決意した。

いつか私や美波を勇二さんのように愛してくれるはずという願いがあった。

しかし、勇二の両親は静香だけでなく孫の美波をも邪見にしていく日々が続いた。

 

勇二と静香の勤務していた会社からは、社長の温情で多目の退職金が支払われ、

勇二が偶然入っていた生命保険も支払われた。

「お金は手に入ったのだから、もうここに用はないでしょ?出て行って欲しい」

可愛い勇二を盗り、殺したと思っている静香と住むことは

勇二の両親には耐えられなかった。

いつしか美波は、勇二の両親の姿を見れば泣くようになり、

『うるさい』と叱られてはまた泣くの連続で、

「バアバがいい」と静香の母親を慕い続ける。

勇二の両親がいつかは変わると信じ願っていたが、

孫の娘美波さえも近づけさせない。

このままでは、美波がかわいそうと思い、とうとう実家を出る決心を固めた。

一周忌法要が終わった翌日、勇二の両親の希望通り、後藤家へ戻ることを伝えた。

勇二の新たに位牌を作り、住職さんに位牌分けをお願いした。

 

この日から静香、美波、静香の母親の3人だけの生活が始まった。

美波が小学校に入る前までの4年間、穏やかな日々が流れ、

静香も美波も実家の農業を手伝って、土の香りを思いっきり楽しんだ。

その間、勇二の月命日翌日には必ずお墓へお参りをした。

本命日は自宅でお祈りし、翌日にお参りした。

それは足立家の人間が静香と会うと先方が不愉快になるだろうとの考えからだった。

やがて足立家長男優一の嫁の玲子さんにも無事、長男、長女と年子で子供を授かった。

足立の両親は大いに喜び、二人の孫を下にも置かない可愛がりようで、

美波への態度を見て不安に思っていた玲子さんからは

『あまりの変貌に驚いたし呆れた』と連絡があった。

 

ある時、玲子さんから、足立の家に来てもらえないかとの連絡があった。

不安を感じながら足立家を訪問すると、足立の両親と兄の優一が客間で座っている。

静香がそっと座布団に座ると、優一より

「静香さん、父と母が今までの事を謝りたいと言い出しましたので、

 今日は来てもらいました。

 わざわざありがとうございます。さあ父さん、母さん」

 

足立の両親は下を向いて神妙な面持ちで

「静香さん、あなただけでなくあなたの家にも美波ちゃんにも

 今まですごくひどいことをしてきました。許してください。

 私達はあなたの優しさに甘え過ぎたのかもしれません。

 この前の命日のおり、住職さんところに伺い、

 あなたの話をお聞きして、きつく叱られました。

 静香さんが毎月の月命日にも欠かさず墓参りをしていること。

 そして、私達の事を考えて本命日の翌日に墓参りをしていることを聞きました。

『あんなに若い娘がここまであなた達に心を配っているにも関わらず

 いい歳してあなた達は何をしているのか?

 こんなことをしていて死んだ勇二君が喜ぶと思っているのか?

 仮にも人の親ならば、子や孫を可愛いと思う気持ちがあるならば

 その気持ちを静香さん親子にも感じるのが当然でしょ』と、

 そこで初めて目が覚めました。今まで本当に申し訳ありませんでした。

 そして今まで本当にありがとうございました」

 

静香はやっと足立の両親への思いが通じたことを知りそのうれしさに涙した。

墓参りした時必ず住職に挨拶した。

その姿をずっと住職は見てきた。

住職の耳には色々な噂も入ってきている。

住職は静香親子の行く末を心配しながら見つめていたようだ。

足立の両親からは、

『困ったことがあれば何でも言ってほしい。ぜひ美波ちゃんも遊びに来てほしい』と言われたが、幼い美波は怖がってしまって無理だった。

 

やがて美波が小学校へ通う年齢になった。

兄が仙台へ転勤したのを機会に母親へ

『一緒に暮らさないか』と言って来ている。

美波も大きくなったので安心して母親を仙台へ見送ることとした。

後藤家の農地は農業会社から多くの引手があり、年間契約で貸すことにした。

賃貸料は母の口座に入るように勧めたが、静香親子を心配な母は頑として受け取らない。

そろそろ働こうと考えていた静香は、仕方なく将来の美波へ渡すことで納得させた。

その後、静香は美波と二人だけで第二の人生を歩く事を決め、

足立家の口利きで、『荒波!日本海』という大型海鮮料理店で

半年近く修行させてもらい、

やっと角盤町の一角に『さざなみ』を新規開店させた。

 その名前は、『世の中は荒波ばかり、その荒波に揉まれ疲れている人の心へ、

さざなみのようなひとときを与えることができれば』との静香の願いから命名された。

(つづく)

100.特訓9(葉山編2)

隆一郎翁と翔の攻防を見ていた京一郎が

「翔君、筋肉の痺れとスピード低下が無ければ大丈夫だな?」

「はい、その通りなのですが、これがうまく行かないのです」

「わかった。

 現在、一定時間だけ筋肉の疲労を感じなくして、

 反射神経を数段高める作用のある薬を研究中だ。

 この前、君が捕まえた獣人化薬の応用薬だ。

 もちろん、毛や牙が生えたりする副作用はない。

 ただ30分間しか使えない薬で、

 その時間を過ぎると骨格筋が一切動かなくなる」

「京一郎や、それでは何も役に立たない。

 もっと持続時間の長いものを研究しなさい。

 それならば、翔君、

 やはり元々の力を高めるしかなさそうじゃな」

「はい、そうなのですが、何かいいアイデアはありますか?」

「いや、すぐには無い。

 だが、太極拳の中で内気功を回すことにより体力を高めることのできる技や

 仙道で気の力を高める方法もある」

「内気功?仙道?」

「そうじゃ、気を体内で回すことにより、まあこれは気を練るというがな、

 戦いながら体力を維持しスタミナの上限を高めることのできる技で、

 仙道は元々の気の力を高める方法じゃ」

「そんな都合の良い技が!早く教えてください」

「まあ、焦るな。

 大変難しい技で簡単には出来ないから、まずは明日から修行を始めよう」

「ありがとうございます」

「それはそうと、もう膝が笑っておるようだが、大丈夫なのか?」

「実はもう限界で、フラフラです」

「今日は、ここまでにしておこう」

「ありがとうございます」

 

翔は何とか部屋まで歩いて戻り、ドアを閉めた途端にベッドへ倒れ込んだ。

百合が心配そうに見ている。

「やはり、百合んところの爺さんは化け物だな。全く歯が立たない」

「まあ、お爺様は戦い慣れている人だから仕方ないわよ」

「うちの爺さんもそうなんだよなあ。まだまだひよっ子ということか」

「私は、あなたのことをすごい人と思ってるわ。

 そして、あなたのフィアンセで幸せと思っているわ」

「それは僕もそうなんだけど、くやしくてさあ」

「大丈夫、あなたならきっと勝てるようになるわ」

「そうなれるように、力づけて

 ね?、ねえ、百合」

「ふふふ、今日も甘えん坊さん」

翔は全身が殆ど動かせなくなってるため、目でせがんでいる。

百合がそっとその唇へキスをした。

 

同じ時間、隆一郎翁は悠香とお茶を飲んでいた。

「あなた、このたびは驚きましたね。

 あの子にあんな力が宿るなんて。

 さすがのあなたも少し慌てたように見えました」

「さすがにあんなに早く一瞬で跳んでこようとは思っていなかったからのう。

 ただ跳んでくる方向はわかったので何とかそれには備えられたがな」

「あれで以前のスピードなら大変な技になりますね」

「そうじゃなあ。跳ぶ前のスピードを維持できれば誰もかわせないであろうなあ」

「これでしばらく、百合の可愛い笑顔を見えるし、

 一緒に修行する私達も若返りますね」

「そうじゃのう、今回も楽しみが多い。

 ちょうど翔君にも太極拳や大陸の奥地で獲得した仙道を伝授できるいい機会じゃ」 

 

(つづく)

6.追憶1(改)

静香はタクシーに乗ってしばらく経って目を覚ました。

美波が静香の背中をさすりながら心配そうに見つめている。

「はっ、お母さん、眠ってた?」

「うん、私、びっくりしたよ。今日みたいなお母さん、初めて」

「ごめんなさい。嫌なことがあって少し飲み過ぎたのかなあ。あっ、日下さんは?」

「疲れているみたいだから気をつけてくださいって言ってたよ」

「日下さんに悪いことしちゃったわねえ。私からお願いしたのに」

「またお店には来ますって」

「良かった。今度はお詫びしないと」

「また寝ちゃったりして・・・」

「もう、美波、勘弁して、今度から気をつけるから。

 これからお母さん、もうお酒を飲みません」

「お母さん、いいよ、いいよ、飲みなよ。飲み過ぎなければいいじゃない。

 でもお母さん、安心している寝顔だったよ。あのおじさんなら安心するよね」

「えっ?何を言ってるの?日下さんはお客さんよ」

「そう?初めて会ったけど、実は2度目だけど、あの人、好きだよ。

 今日なんてまるで、お父さんといるみたいに優しくてすごく楽しかったよ」

「そう?それは良かった。でも日下さんにはあまり無理言わないでよ」

そんな話をしている間にタクシーは自宅へと着いた。

 

静香はお風呂に入って、テレビのニュースを流しながらお茶を飲んでいた。

今日は、最悪の日だった。

初めて来た客から酔いに任せて、噂だと断りながらも過去のことを悪し様に言われた。

自分のことは我慢するが、

亡き夫の家や娘のことを言われるとその言葉が心に刺さった。

今まで必死で生きてきて、今や亡き夫の実家とも仲の良い関係にあり、

鳥取県でも有数の進学校の米子東高校へ入学した娘は

自分にとっての自慢でもあり宝物でもあった。

今日はそれらすべてを汚される言葉を聞かされた。

 

静香は、昭和36年(1961年)生まれ。米子市旗ヶ崎で農家の娘として生まれた。

子供の頃から誰からも好かれる活発で利発な娘だった。

中学校から勉強やテニスに打ち込み、鳥取県で有数の難関高の米子東高校へ入学した。

夫となる勇二とは、高校時代テニス部の1年先輩で夏休みの合宿の時に、

一緒にペアを組んで模擬試合をしたことから急速に仲良くなり付き合うようになった。

 勇二の実家である足立家は、弓ヶ浜でも有数の網元で地元の名士であった。

近海漁業だけでなく観光漁船や釣り船を展開する実業家だった。

農家の静香の家とは格が違うと、勇二の両親は静香との付き合いを嫌がっていた。

その時に勇二の両親が、静香を悪し様に罵った噂が今日まで生きている。

この時の二人には勇二の卒業までの一年間しかなかった。

学校帰りに湊山公園や神田神社や弓ヶ浜などで二人の時間を過ごし幼い恋を育んだ。

 

勇二を溺愛していた母親は県外の大学に行くことを嫌い、

勇二が四国にある海上技術短期大学校を受けたいと言っても一切聞き入れなかった。

しかし、海洋技術に興味があった勇二は、親に無断で受験し合格し入学した。

後でわかったことだが、

勇二の味方となったのは兄の優一だけで両親を説得したらしい。

 

勇二が入学して米子にいなくなったため勇二の両親は、

何かと後藤家に来ては付き合っている静香をさんざん貶して帰って行った。

自分達のいう事を聞かなかったのは静香のせいだとも取れる言い振りだった。

静香自身は聞いていないが、兄が後で教えてくれた。

「勇二の嫁は他のいいお嬢さんを考えている。邪魔だからいなくなって欲しい」

「お前ところみたいな貧乏農家の娘など、うちには絶対無理だ」

「お金を期待して付き合っているのか」など散々悪口を言われたらしい。

しかし父にとっては、自分の可愛い娘を、宝物に近い娘を、

ここまで悪し様に言われ始めると我慢出来なくなった。

 

それから父は勇二を憎み、

勇二からの電話を一切取りつがなくなって、

揚句に付き合いも止めるよう静香に強く言い始めた。

兄の純一は色々ととりなしたが父は一切譲らなかった。

「あのような家の人間とは、まかり間違っても付き合いたくない」との言葉以降、

この話題で兄とは一切話さなくなったらしい。

 

勇二と一切連絡が取れなくなっても静香は、夜にこっそりと公衆電話で話した。

そして、夏休みなどの長い休みの時には、日帰りで途中の岡山市で逢瀬を重ねた。

やがてそれも父にばれて、とうとう一切会うことはまかりならんと厳命された。

それを伝えられた勇二は、泣きながら両親の行動を静香に謝った。

静香ももう会えなくなった悲しみに心が張り裂けそうになった。

『無事大学を卒業して就職したら静香と暮らしたい』

という勇二の言葉だけを静香は信じた。

 

高校の卒業式を控えたある日、

勇二から神戸市にある商船会社に無事就職が決まったとの連絡が兄へあった。

兄から連絡をもらった静香は、その夜、父へ勇二と結婚したいと告げた。

「絶対に許さない、そんなことすれば、お前はもう娘ではない」との言葉。

一晩考えに考えた静香は、

翌日早朝、静香は父が締め切っている襖に向かって

「お父さん、長い間育ててくれてありがとうございました。

 静香は勇二さんの下へ行きます。

 きっと幸せになります」

と挨拶し、勇二の待つ神戸市へ向かった。

大学の春休みに帰省していた兄の純一も

『もっと冷静に話そうよ』と、話しかけてくるが静香に耳を傾ける気持ちはなかった。

静香も高校を卒業するまでは親の言う事を聞くしかないと思って、

勇二が就職するまでの2年間ずっと我慢していたからだった。

その時の静香にとっては、愛する勇二との生活が全てだった。

 

勇二との神戸の新婚生活は夢のようだった。

勇二も静香もお互いがお互いを想いあい深く愛しあった。

休日には二人で六甲山に登って『神戸の夜景』を見て、三宮などを散策した。

幸運にも夫と同じ会社へ内勤社員で就職できた静香は、

『しっかり者の静ちゃん』と職場の皆から可愛がられた。

社長も最初はどんな不良娘かと色眼鏡で見ていたが、

実際の仕事の正確さと早さを知り、

娘と同い年の静香を本当の娘のように心配し可愛がった。

 そんな二人の間に『美波』が出来た。

静香はツワリもひどくないので生まれる直前まで仕事をして、19歳で若い母となった。

美波を溺愛している勇二は、帰宅後は美波が眠るまでずっと胸に抱いたまま過ごした。

そこからの2年間も夢の続きが待っていた。

親子3人だけの慎ましやかで穏やかな時間。

親子3人だけの楽しい未来を話し合った時間。

親子3人だけの濃密な愛の時間だった。

 就職した兄の純一が時々来ては、美波を抱き上げては可愛がっている。

実家の野菜や美波のお祝いと称して多目のお金を置いて行った。

どうやら父からの言伝であることは薄々気づいていたが言葉にしなかった。

 

美波が生まれた1年後、急に父に血液のガンが急に発症し危篤状態となった。

急いで静香が美波を連れて帰省し、入院する父へ初めて美波を見せた。

その時、奇跡的に意識を取り戻した父は、

涙ながらに美波の頬をそっとさわり、

「可愛い孫をありがとう。幸せになるのだよ」と伝え、

そっと目を閉じ、そして逝った。

 

 その夜、兄から静香が出て行ってからのことを聞いた。

出て行った当初は言う事を聞かない娘に怒っていた父だったが、

やがて『静香を追い詰めたのは自分だった』と

原因は自分への悔しさだったと話し始めたらしい。

『娘にこんなことをした父親にもう会う資格はない』とずっと自分を責めていた。

そして『もう二度と静香には顔を合せられない』と悲しがっていた。

父が死ぬ前に自分達の幸せの結晶を見せることができて良かったと静香は涙した。

(つづく)

99.特訓8(葉山編1)

翌日早々にバトルバイクで葉山の館林邸へと急いだ。

アスカとロビンは新宿の事務所までバトルカーで帰って行った。

翔は背中に触れる百合の感触から昨晩のことを思い出しては密かに喜んでいる。

百合は百合で大きな背中に頬をつけて昨晩の幸せをかみ締めていた。

彼に抱かれはじめてから、昨夜初めて意識が遠くなった経験をしたからだった。

週刊誌の情報や友達からは色々と聞いていたがあまりよくわからなかったし

今のままでも十分に幸せで特に不満もなかった。

そういうものは人それぞれだと思っていたが、

本当にそんな風になることを知ったのだった。

 

身体の奥深いところに彼の熱さを感じた瞬間、

その奥深いところから全身へ痺れに似た感覚がひろがり、

身体が空中に浮かぶような浮遊感があった。

その時に必死で彼に抱きつきながら何かを叫んだようだが覚えていなかった。

その時、目の前が白くなり急に全身に力が抜けてしまったのだった。

全身がポカポカして気だるくて幸せな気持ちが続いている。

百合は少し恥ずかしかったけれど

愛する彼と一緒に今までより

もっと深い関係になれたような気がして嬉しかった。

真っ白い富士山から吹いてくる冷たい風も二人には何も感じていなかった。

 

河口湖を出発し東富士五湖バイパスを南下し、御殿場、箱根、小田原を越え、

西湘バイパスへと走ると湘南の海が広がっている。

もう湘南の海も冬の色となり始めている。

浜風も強く、細かい砂をヘルメットへ飛ばしてくる。

打ち寄せる波も大きくなり、

サーフィンやウィンドサーフィンを楽しむ姿もちらほら見える。

江ノ電線沿いにある湘南鎌倉高校を通り過ぎるともう館林葉山邸は目の前である。

 

館林葉山邸に着くと二人は隆一郎翁に挨拶をした。

しばらく翔の話を聞いていたが、

「とりあえず道場でその能力とやらを見せて貰おう。

 道着を用意しているのでそれを来て道場へ来なさい。

 今日は京一郎も呼んでいるので、一緒に来なさい」

 

翔は道着に着替えて道場へ向かった。

京一郎はいつものように白衣を着て壁際で座っている。

翔が神棚に参拝して正座して待っていると隆一郎翁が現れた。

百合は悠香婆と一緒に心配そうに翔を見ている。

 

「では、翔君、始めよう」

「はい」

その瞬間に、隆一郎翁の横へ『跳んで』攻撃をした。

「・・・」

隆一郎翁は予想していたように軽く裁いて翔を壁板へ叩きつけた。

一瞬で勝負がついた。

「翔君、この力は全く攻撃技には使えない。

 君の目の動きで君の跳んでいく方向がわかるので次の攻撃を予想しやすいね。

 それに君が危惧しているように攻撃スピードが遅くなる」

「そうなのです。せっかくの力なのですがあまり意味がないのです」

「意味がない訳ではない。

 例えば遠距離の敵の背後へ跳んで攻撃するとかは大丈夫と思う。

 敵は君がいる筈がないと思って油断しているのでそのスピードでも可能だな」

 

次は、隆一郎翁が道場の隅へ行き、目を閉じて立っている。

翔が反対側の道場の隅で待機している。

「では、始めよう」

翔は隆一郎翁の背後へ跳んだ。

翔が攻撃しようとした瞬間、またもや壁板へ叩きつけられた。

「ほう、気配が背後に一気に湧いてくる。

 確かにこれはいい技になる。ただスピードが話にならない」

「これが精一杯のスピードなのですが、やはり駄目ですね」

何度か同じ場所から跳んで攻撃したが全てかわされて壁板へ叩きつけられた。

(つづく)

5.面影(改)

6月中旬を目標としていた大きな融資案件がやっと決まり、融資課開設後、

初めて月目標が達成する目処が着いた。

9月までの目処としては、

徐々に決まりつつある他の案件もスムーズな様子で安心できた。

誕生日の6月21日は、久しぶりに『さざなみ』でゆっくりとできそうだった。

仕事を早く仕上げて、帰宅しラフな服装に着替えた。

「いらっしゃい。

 あら?今日はいつもと違ってゆったりとした格好ですね」

「こんばんは。うん、大きな山が一段落したから」

「それはおめでとうございます」

「うん、ほんまにきつい3ヶ月やった。

 でもここのご飯で体力が持ったみたいや」

「いえいえ、日下さんがずっとがんばっていたから、

 本当におめでとうございます」

静香は、いつもの日下さんが戻ってきたことをうれしく感じた。

 

「はい、まずはビールを一杯、どうぞ」

慎一はコップに注がれたビールを口に含み飲んだ。

『ゴクリ』

いつものように目が閉じられた。

眉毛が寄る。

『ふう』

ここから寄った眉毛が広がっていく。

次には目が開けられて

「うまいなあ」

静香はこの仕草をじっと見ている。

やがて柔らかな笑顔に変わった。

『やはり勇二さんと同じだった』

 

慎一は自分をじっと見ている女将に気が付いた。

『うん?』

『ううん、ふふふ』

二人は笑った。

「女将さん、今日のお奨めをよろしく」

「はい、そうねえ。

 今日はタイ、アジ、スズキ、沖メバル、ハマチくらいかしら」

「今日はゆっくりと飲みたいので刺身からよろしく」

「はい、わかりました」

いつものように手際よく魚が裁かれた。

 

「タイ、アジのタタキ、スズキの洗いの盛り合わせよ。

 どうぞたっぷり召し上がれ」

「おう、こりゃあ、うまそうや。いただきます」

アジのタタキ

刻みネギがかかっており、コリコリした新鮮な歯ごたえとアジ特有の旨味が引き立っている。

スズキ

洗いにされており磯の香りが口一杯に広がり鼻から抜けてくる。

タイ

皮付きと身だけの2種類ある。

皮付きは湯引きされており皮の旨さを加味された甘さが、

皮を削いだ方は、コリコリした身の触感と鯛そのものの甘さが、

噛めば噛むほど湧き出てくる。

やはり魚の王様だけあると感心した。

 

ふと慎一は日本酒が欲しくなった。

「女将さん、日本酒飲みたいなあ。冷やして飲めるお酒はある?」

「うちでは、地元のお酒で『稲田姫』と『トップ水雷』がお奨めです」

「じゃあ、初めて聞いた『トップ水雷』をお願い」

「はい、わかりました」

冷酒がコップから零れるほどに注がれた。

慎一は受け皿へこぼれたお酒をそっと一口、そしてコップから一口。

『トップ水雷』は、舌触りが柔らかで、やや甘めの割に舌に残らずすっきりしている。

これはいくらでも飲めそうで、ある意味非常に危険なお酒であった。

脳裏に一升瓶を抱いたまま眠っている自分を想像し苦笑いをした。

 

女将さんの話では、『純米酒トップ水雷』の醸造元は、江戸時代より続く米子市の老舗酒蔵「稲田本店」で、昭和の初めに全国に先駆け「冷やして飲む」ためのお酒として発売した。『水雷』と言う名称は明治時代に天皇陛下が山陰行幸随行した時、東郷平八郎元帥が蔵元へ立ち寄り、そのお酒に『水雷』と命名したらしい。『トップ』は日本一になるという思いを込めて『トップ水雷』と改名したとの話だった。

このすばらしい美味しさならば、東郷元帥を陶然とさせたのもわかる気がした。

 

しばらくすると慎一以外のお客さん数人が席を立った。

「女将さん、そろそろ勘定ごしない」

「はい、今日はありがとうございました。またいつでもお越しください」

「女将さん、今日はだんだん」

「そうそう、女将さん、昔」(声が小さく聞こえなかった)

「それはそれは、ありがとうござ・・・」と頭を下げてお礼を言っている。

そのお客さん達が出ていくと、女将さんは足早に厨房奥に引っ込んだ。

慎一の前を通る時、一瞬横顔が見えた。

目頭が少し赤かったようだった。

女将さんは厨房の奥からしばらく出て来なかった。

 

手元の日本酒が無くなる前に女将さんが厨房奥から出てきた。

まだほんのりと目頭が赤く、心なしか声も少し震えている。

「日下さん、すみませんでした。少し嫌なことがあって」

「別にいいよ、美味しい刺身を食べて、

 美味しいお酒を飲んでるから幸せ」

「日下さんは、まだ帰らないで下さいね。

 少し早いけど暖簾を下ろします」

「大丈夫なん?」

「ええ、大丈夫です。今日は気が乗らないので閉めます」

「うん。それがいいよ。もし良かったら帰るよ」

「違うんです。

 女だてら一人でお酒飲むのは飲んだくれみたいで嫌だから、

 日下さんさえ良かったらご一緒してください」

「それは大歓迎です。ラッキー」

 

女将さんは暖簾を下ろして、「さざなみ」の看板の電気を消した。

「ちょうど娘の美波ももうじき晩御飯を取りにくるので一気に作っていいですか?

 それとここからはお金要りませんから安心してください」

「別にええよ。お金は払うから」

「いいえ、では今、今日のお勘定を頂きますのでそれでいいかしら?」

「女将さんがいいならいいけど。ではお言葉に甘えて」

女将さんが、娘さんや慎一のおかずを作り始めた。

慎一の手元のコップには、なみなみと『トップ水雷』が入っている。

お酒のアテには『ヒラマサの塩焼き』が置かれている。

少しずつ飲みながら女将さんの手元を見ていた。

女将さんの表情から暗さが少し消えて目に光が戻ってきている。

カウンターにはどんどん料理が並べられていく。

『沖メバルの煮付け』『鯛のお頭煮付け』『真子と野菜のあっさり煮』

『大山地鶏の塩焼き』『野菜サラダ』『ラッキョウの塩漬け』

 

「あれっ?もう終わってるの?お母さん?あっ、いらっしゃいませ」

「ああ、美波、今日は早く終わったの。カウンターの人は日下さん。

 お母さんがいつもお世話になっている常連のお客さんよ」

美波は、ニコッと笑いあいさつをした。

「ただいま、紹介に預かりました美波です。いつもさざなみをありがとうございます」

「ああ、日下です。いつもお母さんにはお世話になってます」

「もしかして、おじさん、関西の人ですか?イントネーションが関西風なので」

「美波、何を失礼なこと聞いているの。ダメよ」

「はーい。でもどこかで聞いたことある感じなんだよねえ」

慎一はやっと思い出した。

「美波ちゃん。3月31日に元町サンロードの小物を売る店にいたよね?」

「3月31日?あまり覚えていないけど土日はよく友達と行くわよ」

「ちょうど、その日、米子に赴任してきて、そのサンロードを歩いた時、

 誰かにぶつかったこと覚えてる?まあ昔だし覚えてないか」

「あっ、あの時ぶつかって謝った時、『別にええよ』とか言ったおじさん?

 コテコテでない柔らかい関西弁って米子では珍しいから覚えていたの」

「いやあ、奇遇やねえ。あの可愛いお嬢さんが美波ちゃんか」

「かわいいだなんて、おじさん正直者。ありがとうございます」

「美波、何を騒いでいるの?今日は店で一緒に食べましょう。準備して」

「はーい、じゃあおじさんゆっくりと飲んでてね」

 

それから慎一はしばらく女将さん親子と楽しい時を過ごした。

昔、結婚していればきっとこれくらいの娘がいたのだと思うと、

美波ちゃんの顔が眩しく見えて、一緒にいる自分が面映ゆかった。

美波ちゃんはご飯が終わった後はテレビを見てゆっくりとしている。

ただ冷酒のせいかアルコールのまわりが思ったより急で、

女将さんも珍しく酔って眠そうな感じになっている。

美波ちゃんはいつも一人で食べているようで

「今日は3人なのですごく嬉しい」と喜んでいる。

 

その楽しい時間も女将さんがいよいよ船をこぎ始めると

「今日の母さん珍しいな」と美波が焦り、後片付けや店じまいを始めた。

女将さん小上がりにすわり、そっと柱に持たれて眠っている。

美波ちゃんが鍵を持って、女将さんの腕を肩に回して立ち上がった。

「お母さん、帰るよ。お客さんもいるのに失礼だよ。おじさん、今日はありがとう。

 今日みたいなお母さんは初めてで私も焦りました。

 これに懲りずまたのご来店をお待ちしています」

「うん、お母さん、疲れているみたいだから気をつけてくださいと。

 心配せんでもいいよ。

 こんな美味しい料理の店は米子ではここだけやからねえ」

女将さんと美波ちゃんはタクシーを拾って帰って行った。

慎一は心地よい酔いに身を任せて、ゆっくりと歩いてマンションに帰った。

(つづく)

50.洞爺観光-有珠山・昭和新山-

恵山岬からは北上して内浦湾を右手に見ながらひたすら進む。

ネットでは、この内浦湾は渡島半島の基部東岸、室蘭市のチキウ岬及び駒ヶ岳北東麓の岬に囲まれた、直径約50kmのほぼ円形の海域で湾口の長さは約30kmである。別名として噴火湾ともいわれる。この「噴火湾」という別名は、1796年に当地を訪れた英国の調査スループプロビデンス号のブロートン海尉が、内浦湾がほぼ円形な事と、周囲を取り囲む北海道駒ヶ岳有珠山などの火山を見て「これは Volcano Bay だ」と語ったことに由来するといわれている。しかし、その後の調査で内浦湾にはその陥没に見合うだけの噴出物が分布していないので、カルデラに海水が進入してできた地形ではないかと言われている。遠浅の湾であるため、サケ、イカ、カレイなどがよく獲れるほか、ホタテガイの養殖が盛んらしい。地図やチキウ岬から見ても綺麗な円形の湾だったので本当に噴火後のものだと考えていた慎一だったが、自然に出来た地形であることに逆に驚いた。

駅弁のイカ飯の森町を過ぎ、カニ飯で有名な長万部町を過ぎ、洞爺湖町を目指す。

洞爺湖方向へ左折し、有珠山ロープウェイの駐車場に停める。

ロープウェイに乗っている時間は、昭和新山山麓駅から有珠山山頂駅までの6分間だった。

 

説明板には、有珠山の形成などについて記載されている。

有珠山は、標高737mの活火山で山頂は有珠郡壮瞥町にあり、山体は虻田郡洞爺湖町伊達市にまたがっている。支笏洞爺国立公園内にあり、周辺地域が洞爺湖有珠山ジオパークとして「日本ジオパーク」「世界ジオパーク」に認定されている。

約2万年前に洞爺湖をかたちづくる洞爺カルデラの南麓に有珠山が形成され、その後噴火を繰り返し年月かけて成層火山となったが、約7千年前に山体崩壊が発生し、南側に口を開けた直径約1.8 kmの馬蹄形カルデラが形成された。 その結果としてカルデラ外輪山の中に、大有珠(海抜737 m)、小有珠などの溶岩円頂丘や、オガリ山、有珠新山(669 m)などの潜在円頂丘が形成されている。20世紀の100年間で4度も噴火活動が観測されたほどの世界的に見ても活発な活火山である。

有珠山山頂駅からは複雑な形の山頂を持つ多くの円柱丘が林立する有珠山、今にも噴火しそうな赤茶けた山肌の昭和新山、静かな洞爺湖の湖面、蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山の一望できた。

 

ロープウェイを降りて、昭和新山へ向かう。

その観光エリアにあるレストランで昼食を取る。

目の前に迫る白い煙らしきものを纏うまだ若い火山を見ながらの食事だが

慎一は山の情報が非常に気になった。

この火山は、昭和18年のある日、青い麦畑から地震と爆発音とともにふくれ上がり、4ヶ月の爆発、その間刻々と隆起する大地、地球のエネルギーは地底で固まった粘性の強いデイサイト溶岩を押し上げ、398mのベロニーテ型(現在では「隆起型」と言われている)火山を出現させたらしい。

熊牧場に入る前に、買い物コーナーを見ていると『生で食べるトウモロコシ』と幟が上がっている。トレイに置かれている白いトウモロコシの試供品を食べると、非常に糖分量が高く、柔らかく繊維も気にならなかった。

慎一は初めて生でも可能な白いトウモロコシを食べたため、感心して神戸の実家と仙台の義母用にそのトウモロコシと夕張メロンの詰め合わせを贈ろうと考えた。

(つづく)

4.静香のまなざし、美波のまなざし(改)

静香は最近ふとお客さんの一人が気になっていることに気が付いた。

それは連休直前に来店した『日下さん』だった。

関西弁で静香の料理を美味しい美味しいとたくさん食べてくれる人。

連休明けは特に仕事が忙しいみたいで週に2、3度は来るが、

まだ仕事が残っているからとお酒も飲まずご飯を食べて帰っていく。

日下さん用に味付けも関西風にして、

肉・魚・野菜・味噌汁とバランスを考えた定食を提供している。

いつしか常連客もそれを注文するようになり、看板料理になりつつある。

そして、何よりも育ちざかりの美波が気に入ってくれたことがうれしかった。

静香がずっと気になっていることは、

来店するたび日下さんの背中に疲れが蓄積してきているのがわかることだった。

 

慣れない山陰に初めて来て、新規融資案件を取る事は大変難しいことはわかっていた。

米子も含めて田舎は一般にそうだが、山陰地方は特に排他的で山陰以外から来た人間への視線は厳しく、人間関係の構築がなかなかできない地域だった。

地元の銀行でさえなかなか新規事業は殆ど望めない地域のため、確実に集金できる公共料金の口座作りに邁進している。そして誰かが何かを新しく始めることへの批判も強かった。

静香がこの店を始めるときにも色々と噂され大変だったことを昨日のことのように思い出すのだった。

彼の仕事への情熱の高さと責任感の強さには感心させられるが身体が心配だった。

 

一日の仕事を終えて、

ゆったりとした気持ちでお風呂に入っている時や

お茶を飲んでいる時にふと彼を思い出すことがあった。

お店に彼が来ている時は、ついつい彼の仕草を追いかけている。

 

その理由はわかっていた。

彼が亡き夫ととても良く似ているからだった。

ビールの飲んでいる表情や食べている仕草が、

どこか夫と重なるところがあった。

年齢も顔つきも体型もすべて夫とは違っているが、

食事をする時の雰囲気はそっくりだった。

『亡き夫と同じところで飲み、笑い、舌鼓を打つ』

 

静香はそのことに気付いた時、

夫が亡くなってから今まで娘と二人で暮らした時間の長さに気付き、

感慨深さと共に今更のように驚きと悲しみそして寂しさを感じた。

夫が亡くなりもう13年、ずっと美波と二人で生きてきた。

ずっと美波を育てることに精一杯でそんなことを振り返る時間もなかった。

そうにも関わらず、彼を知ったがために生じた最近の感情だったからだ。

仏壇にお祈りする時や月命日の墓参りの時にはいつも亡き夫と会話をしているが、

普段の生活ではそういう意識は全くなかった筈だった。

でもそれは静香の心が、その感情を無意識に抑えていることに気付いた。

 

二階から娘の美波が降りてきて

「ねえ、お母さん、この頃料理方法を変えたの?最近出してるあの定食、とても好き」

「そう?ありがとう。そう言ってくれると母さんうれしい」

「でも、どちらかと言うと美波のために作ったという感じがしないんだよね」

静香は一瞬ドキッとしたが、表情を変えずに

「それは気のせいよ。素材の味を生かした薄味で美味しいでしょ?

 育ちざかりのあなたのためにバランス良く作っているのよ」

「まあ、美味しいからいいんだけどね。少し気になってね」

「なにが?」

「お母さん、時々だけど、思い出し笑いのような感じと言っていいのか、

 楽しいことを思い出していると言っていいのか、

 そんな時があって、何か今までと違うんだよね。

 楽しいことあるなら美波にも教えてよ」

静香は娘の勘の鋭さに驚き、美波も難しい年頃になってきたことを感じた。

「そんなのあなたの気のせいよ。そんなことがあるならあなたに一番に話してるわ」

「だったらいいけど、約束だよ」

「はいはい、わかりました」

静香は『これでは、おちおち家でゆっくりとお茶も飲めないわ』と心でつぶやいた。

(つづく)

98.特訓7(浅間別荘編7)

翌朝からのランニングは、熊の出現を警戒して滝へのコースは避けた。

警察にも連絡し間違って観光客が立ち入らないように注意を喚起した。

万が一に備えて、優子の指示で

アスカが警備犬のロビンをバトルカーに乗せてこちらへ向かっている。

熊の出現に備えてロビンを別荘周りの警備をさせるつもりだった。

アスカは別荘駐車場のバトルカー内で待機させることとした。

 

ランニングコースは、より体力を付けるため河口湖畔1周コースとした。

早朝の山間部特有の清浄な冷たい空気が肺を刺激し気持ちよかった。

湖面は淡い靄が漂っている。

太陽の光が湖面を照らし始めると、靄が次第に動き始めいつの間にか消えた。

鍛錬の時間は、長距離ランニングを追加し3時間に変更した。

 

テレポーテーションの訓練は、

観光客や地元民の目を避けるため別荘敷地内でしている。

太い杭を何本も打ち、それを敵に想定しながら『跳ぶ』訓練であった。

短距離(数メートル)の跳躍ならば2回でも動きが止まることはなかった。

ただ使えば使うほど動きが鈍くなることはどうしても避けられなかった。

最初はただひたすら走って体力を付けて、数メートルの短距離移動の回数を増やし、

跳ぶ感覚に慣れることと筋肉や反射神経の低下の程度を身体へ覚えこませた。

 

『跳んで』は、拳の連打(正面からの顔面と腹部への連続突き、側面からも同様)

『跳んで』は、蹴りの連続(正面から顔面と腹部への連続攻撃、側面からも同様)

『跳んで』は、手刀の連続(後背部からの後頚部又は頚動脈への連続攻撃)

徐々に跳ぶ感覚も身体が覚えて来ている。

そして跳んだ後の脱力感で倒れこむことは無くなってきた。

最終的には跳んだ後も通常の動きが出来るようにすることが必要だった。

しかし、一朝一夕では簡単には出来ることではなかった。

それから2週間経ったが、残念ながら大きい変化は見られなかった。

どうしても体力が大幅に削がれ動きが鈍くなることは避けられなかった。

跳んだ後の筋肉の痺れと倦怠感が残る弱い戦闘力では敵と戦うことは出来なかった。

 

百合から『葉山のお爺様に聞けば何か突破口があるかもしれないわ』の提案があった。

翔としても賛成するしかなかった。

それ以上の方法が全く思いつかなかったからだ。

館林家頭首の館林隆一郎翁は、

興味深げに百合の話を聞き、『すぐに来るように』と答えた。

とうとう今夜が二人きりの最後の夜になる。

ついつい二人はいつもより深く、いつもより長く愛し合った。

(つづく)

49.函館観光3-恵山岬-

翌朝、早く目覚めた慎一は、一人で露天風呂へ入り朝日の昇る津軽海峡を見つめた。

しみじみと露天風呂が部屋に付いている良さが感じられる。

温泉につかってさわやかな海風に吹かれながら

昇る太陽の光を受けていると今日一日のエネルギーが湧いてくる。

しばらくしていると子供達の声が聞こえてきたので部屋へ戻った。

それと交代に美波が露天風呂へと入っていく。

静香は、子供達に服を着せて慎一へ任せながら部屋を片付けていく。

 

朝ご飯はバイキングコース。

イカコーナーでは朝採れの『イカソーメン肝和え』が目の前で作られていく。

半透明の細い切り身がまだ少し動いている。

心地良い歯応えと肝の甘さに生姜醤油が良く合っている。

ついついお酒を飲みたくなる程の美味しさだった。

その他和食としては、甘辛い地魚のアラ煮にアラの味噌汁などが盛り沢山だった。

みんなお腹いっぱいになったのでホテルを出発した。

 

ドライブ好きの慎一は、こちらへの異動命令が出てから、

ずっと『北海道の岬巡り』を考えていて、札幌への帰り道に

たぶんなかなか来ることはないであろう恵山岬を今回は目指すつもりだった。

函館近隣のもう一つの岬である白神岬へは別の機会に回ることとした。

白神岬は北海道南部の大部分を占める渡島(おしま)半島の北海道最南端の岬である。

函館市から津軽海峡沿いに西へ走り日本海側へ回るコース上にあり、

江戸時代から長い歴史のある松前町、日本海に浮かぶ奥尻島を横目に見ながら江差寿都、岩内、余市、小樽へ向かうことになる。

途中から八雲町やせたな町から内浦湾へ向かい高速道路に乗って帰ることもできる。

 

函館市内を抜けて国道278号線を海岸沿いに走ると

途中に「道の駅 なとわ・えさん」がある。

ネットの説明では、この駅名の中の「なとわ」は、道南地方の方言で「あなたとわたし」を意味している。目の前には津軽海峡、遠方には活火山の恵山を望むことができ、物産館には、ホッケ、タラ、ウニなどの魚介類や、黒口浜真昆布を使ったコンブ巻などの特産品が並んでいると記載されている。

この駅は函館と主要都市を結ぶ幹線道路からは離れているため、

客は少ないのではないかと思っていたが意外に駐車場には車が多く停められていた。

物産館に入って先ず目に入るのは、

「大量の名産品の昆布」の棚と「昆布ソフトクリーム」の幟。

ここしかないとの事で、早速ソフトクリームを頼む。

そっと口に含んでみると、昆布の粒入りで少し塩気が効いていて、

ベースとなるミルクも濃厚で甘味と塩味がバランスの取れたスウィーツだった。

お土産の昆布を買って車に乗り込んだところ、

突然駐車場の隣の車の老夫婦から声を掛けられた。

こちらの車のナンバープレートは神戸となっているため、関西出身の老夫婦は懐かしくなって声を掛けてきたらしい。老夫婦は数年前に夫の定年を機に、函館市へ定年後移住してきたそうで、清清しい空気、美しい自然や新鮮な海産物の好きな夫婦には格好の街と映っているようで、自治体としても移住に関しては積極的な対策をうっている。

 

しばらく海岸線を進んでいくと、活火山恵山のある恵山岬の看板が出てくる。

恵山は、ネット情報では標高が618mの気象庁による常時観測対象の活火山で、

その荒々しい山容や溶岩、噴気の様子から古くから信仰の対象となっており、

下北半島の恐山と並ぶ霊場ともなっているらしい。

函館からつながる278号線を北上して西側から回りこみ、

函館市新浜町椴法華から右折し231号線へ向かい、

太平洋を左に見ながら南下していくと「恵山灯台公園」の看板が見えてくる。

278号線を北上して西側から回りこみ、函館市新浜町椴法華から231号線へ向かい、

太平洋を左に見ながら南下していくと「恵山灯台公園」の看板が見えてくる。

近くには太平洋を望むカジュアルな温泉ホテル「ホテル恵風」があり

突き当りには、開放感満開の景色抜群の干潮時のみの入浴可能な温泉「水無海浜温泉」がある。

やがて恵山灯台公園の入り口が見え、駐車場から灯台へと向かった。

絨毯のような綺麗な芝生に囲まれた真っ白の灯台で、真っ青な太平洋が眼下に広がっている。

併設されている公園には子供が遊べる遊具もいくつかあったため子供達を遊ばせている間、慎一は灯台周辺を散策した。

夏の強い日差しは感じるが、頬へ吹き付ける風が涼しく気持ちよかった。

崖の上に立つと今はおだやかな津軽海峡の蒼さが目に入ってくる。

公園内に「函館市灯台資料館」があったが、今は閉館されているようで残念だった。

しばらくして、札幌への帰路に着いた。

(つづく)

97.特訓6(浅間別荘編6)

反対側の崖へ跳んだ二人は恐る恐る足元を見て、

お互い顔を見つめて、

抱き合った姿勢のまま

しばらく反対側の滝つぼの崖の上に佇んでいた。

「翔さん?もしかしてこれがテレポーテーション?」

「うん、そうみたい」

「熊ってこんな近くにいたのね。

 すごく怖くて、

 頭が真っ白になって身体が動かなかったわ」

「うん。

 百合が危ないと思って必死になったら出来ちゃった」

「翔さん、助けてくれてありがとう」

「百合に何かあったら嫌だから」

「とにかく二人とも無事で良かった」

二人はじっと見詰め合ってキスをして相手の身体を再確認した。

 

「翔さん、私も一緒に移動したけど」

「怖かった?」

「いいえ。翔さんに抱きしめられていたから怖くなかった」

「二回連続で出来たのはこれで二回目だ」

「それで、身体はどんな感じなの?」

「実は立っても居られないくらい身体中がだるいんだ」

「それは大変、しばらくここで休んでましょう」

「うん」

「翔さん、はい、どうぞ」

「うん、ありがとう」

と翔は百合のひざまくらに甘えた。

 

形の良い膝を枕にして休憩していたら、

身体中のだるさが少しずつ良くなってきている。

百合が翔の髪や肩をずっと撫でている。

やっと立てるようになってそっと起きた。

流れ落ちる水の支流は太くて向こう岸に渡ることは出来なかった。

それに滝壺に落ちた熊がいつ上がってくるかわからなかった。

 

翔は百合を後ろからそっと抱きしめながら、

今度は、別荘への分かれ道を見つめた。

あの時と同じような感覚が身体に蘇ってくる。

次の瞬間、

二人は別荘への分かれ道に立っていた。

「翔さん、すごい・・・でも身体は大丈夫?」

「少しだるいけど大丈夫。じゃあ別荘へ戻ろう」

「そうね。よく考えたら朝ご飯がまだだったわね」

「お腹すいたよ。よろしくね」

「はーい、あなたはシャワーを浴びて疲れを取ってね」

 

翔はシャワーで軽く汗を流し、

朝ご飯を食べてコーヒーを飲んでゆっくりとした。

後はこの能力を自由自在に使えるようにするだけだった。

しかし、この能力は体力を根こそぎ奪うため、

それほど頻繁に使えるようになるかどうかはわからなかった。

二回発動させると手足が十分に動かせなくなるのだった。

このままでは戦いに使えない事は確かだった。

(つづく)

48.函館観光2

函館山からの夜景を見て、

その光景を惜しみながらも急いでホテルへと向かう。

夜景観光を念頭に遅めの夕食を予約しているので食事が楽しみだった。

今夜宿泊する「湯の川プリンスホテル渚亭」は、

露天風呂付きの和室で今までのホテルとは違っている。

温泉は24時間湧いているのでいつでも入れるし、他人の目を気にしなくて済む。

 

美波は大喜びしながら、『先ずは』と温泉に足をつけている。

「気持ちいー」という弾んだ声が聞こえてくる。

子供達は抱っこから解放されて、

得意の四つん這いで畳の上を活動している。

静香は荷物整理をしながら『お腹すいたわねえ』と独り言が聞こえる。

「リーン」と部屋の電話が鳴る。

夕食の案内電話だった。

 

個室へ案内されて、ふすまを開けると

テーブルの上には色とりどりの多くの料理が並んでいる。

それを見るみんなの瞳がキラキラと輝いている。

仲居さんが

「これ以外のお料理は、あちらのバイキングコーナーからお取り下さい」

さっそくバイキングコーナーにも顔を出すと食べ切れないくらいの種類の料理が並んでいる。

生の海産物に関しては、ラビスタ函館ベイで食べているので驚きはないが、

テーブル上に盛られた刺身も新鮮で歯ごたえといい甘さといい秀逸だった。

特にイカはやはり夜のものが、身の甘さが倍増されて慎一には美味しかった。

焼き物、地元野菜の煮物、汁椀など子供に食べさせながら平らげていく。

あらかた料理を食べて、バイキングコーナーへ行き、

デザートのフルーツ盛り合わせとミニケーキ盛り合わせ、ジュース、コーヒーを飲む。

子供達もお腹いっぱいになり、活発に部屋中を動いている。

 

部屋に戻ると静香から声を掛けられた。

「あなた、先にお風呂に入って下さい。今日はお疲れ様でした。

 私はあとで美波とこの子達と一緒に入りますから」

言葉に甘えて1番風呂を貰う。

泉質は塩味で加水・加温をしていない源泉100%の温泉と説明されている。

温泉は部屋の海側に作られており、

部屋とはガラスの壁で仕切られている。

洗い場がおよそ畳2畳の面積でシャワーが付いており

浴槽はおよそ畳1.5畳の大きさで深さは70センチ程度、

浴槽内に段になっている場所があり半身浴もできる。

海側の窓ガラスは無く、セメントでうっただけの壁で

高さ1間、幅半間(90センチ)で切り取られており、

その切り取られた空間からは

夜の津軽海峡にポツンと浮かぶイカ釣り船の灯りが光っている。

湯気にほのかな潮の香りが混じっている。

このホテルの海岸部分は、プライベートビーチとなっており

人間が歩くことができないので、女性も安心して部屋の温泉に入り

その風景を見ながらゆっくりと過ごせるのだった。

(つづく)

3.秀峰大山へ(改)

『小料理屋さざなみ』で気持ち良く飲んで眠った翌日、自然に目覚めたのは正午手前だった。

朝昼食兼用でトーストとコーヒーとサラダをニュースを見ながら食べた。

ベランダからは、『秀峰大山』が花曇りの空を背に際立って見える。

 

掃除しながらここ一週間の溜まった洗濯物を洗い、

乾燥後はワイシャツや下着やズボンへアイロン掛けをした。

元々きちんとした性格の慎一は、長い独身生活で

日常ではあまり困ることがなくなっており、

家事に関してはだんだん結婚から遠ざかる自分を感じている。

20歳代はそれなりに恋人もいて結婚も考えていたが、

生活のすれ違いから別れてからは仕事一筋で生きてきた。

 

最近同僚を始めとして最近の若い女性を見ていると

掃除、食事、洗濯、アイロン掛けなど日常生活も苦手な人が多く、

いくらテレビ番組がおもしろおかしく大げさに編集されているとはいえ、

『ただ若いだけ』では彼女たちにそれほど魅力は感じなかった。

 

30歳頃までは母親からしつこく結婚するように言ってきていたが、

35歳を過ぎた頃から教師をしている妹夫婦と住むようになり、

孫の面倒を見始めると何も言わなくなった。

実家は分家なので墓や跡取りとかを気にしなくていいことが幸いだった。

 

明日からは米子市を中心としたエリアのドライブを考えている。

山陰地方の地形的特長として、東西に非常に長く、南北もそれなりに長い。

JRは山口県下関から京都まで東西に一本通っているので海岸沿いの移動には便利だが、南北には不便だった。高速道路は計画段階のものが多くバス移動が主で十分でない。

結局、長時間の運転を覚悟すれば自動車が一番便利な移動手段だった。

昔からドライブや神話・神社を趣味としている慎一には楽しみだった。

 

翌朝すっきりと目が覚めたので少し早めだが、

朝ご飯を食べて大山へ出かけた。

米子市街地から出雲街道(国道181号線)に入り、

米子南インターから米子バイパスへ左折し、

米子東インターで下りれば大山への道に入る。

まだ行き交う車もまばらで、窓から入って来る涼しい風は

新緑の季節を満喫している木々の喜びの香りに満ちていた。

道沿いにはところどころ数台の車が止まっており、

山菜をとる地元の人の姿が見える。

色々な看板がフロントガラスを流れていく。

「大山トムソーヤ牧場」「乗馬センター」「ブルーベリー農園」、

その他ゴルフ場やホテルへの案内だった。

 

そんな中、道路沿いのうっそうと茂る樹木の間にポツンと立つ

ペンションのような外装の『喫茶マナイの家』を見て、

帰りには立ち寄って美味しいコーヒーでも飲もうと考えた。

しばらく走っていると旅館街が見えてきた。

大山寺と大神山神社奥宮を参拝するため駐車場へ車を停めた。

大山寺までの道は旅館や土産物屋・食事処が並んでいた。

まだ昼まで時間はあったが多くの人が歩いている。

 

ネット情報では

『大山寺は、天台宗別格本山角盤山の名称の他に中国観音霊場29番札所、伯耆音霊場14・15札所、出雲國神仏霊場10番札所とされている。奈良時代養老二年(718年)出雲の国玉造りの依道(出家後、金蓮上人)に依って開山されました。昭和の三年四度の火災に見舞われた本堂は昭和二十六年に再建されました。現在も尚、山内寺院十ヶ院、重要文化財阿弥陀堂及び弥陀三尊を初め、宝物類も数多く残され、実に山陰の名刹として、天台でいう所謂鎮護国家霊場として更に、中国地方一円の人々から御先祖様に会える寺として崇敬を集めています』と紹介されている。

 

まず大山寺に着くと、

「本堂」のご本尊の地蔵菩薩

「下山観音堂」のご本尊の十一面観音菩薩様(控仏)

阿弥陀堂」のご本尊の阿弥陀三尊像

護摩堂」のご本尊の不動明王様へと順次厳かな気持ちでお参りした。

そして霊宝閣の十一面観音菩薩様を始めとして多数の仏像に見入った。

昔から多くの人々が一心にお祈りを捧げてきたのだと思うと心が落ち着いてくる。

慎一は仏を前にして心を空にして、ただひたすら自らの健康と無事に感謝した。

 

次は、『大神山神社奥宮』への道を探した。

大神山神社奥宮までは、うっそうと茂る森の中、自然石による参道が続いている。

神門が見え、その奥に佇む奥宮が見えた時、慎一は息を呑んだ。

日本最大級の権現造りの立派なその造りに、

そして奥宮内部の華麗さに、

天井画の鮮やかさに感動し、厳かな気持ちで参拝した。

 

縁起には

御祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ・奥宮)又は、大穴牟遅神(おおなむぢのかみ・本社)様で、どちらも大国主神のお若いときのお名前だった。大己貴神(大国主神)は古事記日本書紀出雲風土記等の神話・伝説の主人公の一人であり、特に国造りをされたことから産業発展、五穀豊穣、牛馬畜産、医薬療法、邪気退散の神と紹介されている。

確かにはるか昔、古代それも日本創世の時代の話である。

慎一は京阪神・四国などで今まで多くの神社に参拝したが

これほど古い歴史のある宮には参拝したことはなかったので感動した。

大山寺へ下りて来ると少し汗ばんでおり、喉が渇いていたが

自販機で飲み物を買うのを我慢して朝に見つけた喫茶店へ直行した。

 

『喫茶マナイの家』では幸いなことに駐車場には1台も車が無かった。

ゆっくりとコーヒーの香りと味を楽しむには1人が1番だったからだ。

入口で靴を脱いで、いい香りのする板張りの廊下を進んだ。

可愛い英国製のアンティークが部屋中に飾られていた。

「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」

案内された部屋は木製のテーブルと椅子が8セットほど並べられている。

 

案内された時、テーブルにそっと置かれた水滴のついたコップの水。

その水滴に宿る光に惹きこまれて、ついついメニューを見る前に、

軽く喉を潤すためにそのコップの水を飲んだ。

「!!!???」

この水は声にならない美味しさだった。

慎一は一気に飲んでしまっていた。

ほんの少しのリンゴ果汁でも絞り込んでいるかのような

しつこくない甘みと喉通りの爽やかさ!

「このお水をもう一度下さい。本当に美味しいですね。

 何かされているのですか?」

「いえ、このお水は毎朝、『天の真名井』まで行って汲んできたそのままです。このお水でコーヒーや紅茶も作ります」

慎一は、ブレンドコーヒーを頼んだ。本当に楽しみだった。

しばらくすると

「ボーン、ボーン、ボーン」とアンティークの時計が鳴った。

入口方向から新しいお客さんの足音がしてきた。

ほんの少しの間に半分ほどの席が埋まった。

やがてコーヒーが運ばれてきた。

 

カップの隣には、英国製であろうビスケットが二本置かれている。

さてコーヒーは如何にと一口含む・・・

果たして、

出会ったコーヒーは『雑味が全く無い綺麗なコーヒー』だった。

良い水と良い豆だけを贅沢に使い出来上がった、

英国製を髣髴させる秀逸の一品であった。

少し飲んでは、ビスケットをかじり、

また飲んでは、その絶妙なうまさに『フウ』とため息をつく。

その繰り返しでいつの間にか、至福の時間が過ぎ去った。

コーヒーの代金を支払って帰ろうとしていると、

二階にあるアンティークコーナーへの案内板があった。

そこにはアンティークの趣味の人ならば喜ぶ品がそこかしこに陳列されていた。

 

すごく幸せな気持ちで家へ向かっている途中、

地元のスーパーマーケットに寄り、

大山鶏と白菜など野菜を買った。

久しぶりに『水炊き』でたっぷりと野菜を食べるつもりだった。

ちなみに世間でよく言われている水炊きは、九州の水炊きを指しており、

地鶏をたっぷりと使いガラを煮込んで真っ白に濁った出汁を使う鍋だが、

慎一の作る『水炊き』は、日下家でしょっちゅう食べていたもので、それらの鍋とは異なる『サラサラ鶏の水炊き』だった。

 

作り方は簡単で鍋に水を張り日本酒と昆布を入れて火にかける。

昆布の出汁が出たら、鍋から出して刻んでおく。

すぐに鶏肉を入れて少し火が通ったら豆腐、白菜、椎茸、人参、長ネギを入れるだけ。

付けダレは、ポン酢に醤油を入れても良し、醤油にスダチやカボスを絞り込んでも良し、味ポンスダチやカボスを絞り込んでも良し、味ポンにポン酢を入れても良しと、とにかく醤油味と酸味と若干の甘みがあれば何でも良かった。

作った付けダレに七味を振り込んでたっぷりの野菜と鶏肉を食べる。

ご飯にも刻んだ昆布を振り、肉や野菜の出汁の出たお汁をかけて、

お茶漬けの感覚で具と一緒にご飯も頂いていく。

 

この『サラサラ鶏の水炊き』の良いところは、

作り方が簡単で誰でも作ることができる点、

肉や野菜をバランス良くたくさん食べられる点、

しつこくないので冬だけでなく夏でも食べられる点、

翌日にも味を変えた鍋を楽しめる点、

この出汁そのものはサラサラしており、

どんな味にも変化させることができる点だった。

 

翌日のメニューは『豚の味噌炊き』に決まっていた。

残った水炊きの出汁に豚肉の細切れと豆腐、白菜、モヤシ、長ネギ、麩などを入れ煮込み、味噌や砂糖で若干甘めに味付けして、

またもご飯に具や汁をかけて七味を振った具と一緒に食べていく。

この二つの鍋は、酒・ご飯、どちらでも美味しく一緒に頂けるので便利だった。

(つづく)

2.「さざなみ」初来店(改)

明日から久しぶりの大型連休で十連休となった。

4月は年度初めであり、融資部全員一丸となって高い目標で動いたが、

残念ながらいい成績は出なかった。

連休前の4月27日夕方は、職場の同僚もソワソワしている。

恋人や家族との旅行を控えた人が多いようで

口々に「お疲れ様でした」とそそくさと退社していく。

慎一は特に計画もなかったが、米子市近辺のドライブでもしてみようと考えていた。

 

今日の晩御飯こそは、久しぶりにゆっくりと食べて飲んでみようと

米子市の繁華街の一角の角盤町へ出てみることとした。

角盤町の路地には夕暮れに家路へと急ぐ人達に混じり、

もうだいぶアルコールが入った様子の数人の酔客も歩いている。

町の様子を見ながら何気なく少し細めの路地へ目を移した。

 

小さな看板で『さざなみ』と板書された小料理屋が目に入った。

暖色系のライトが、さざなみの四文字を抜き取った水色地の新しい暖簾を照らしている。

暖簾から中を覗くともうすでに数名のお客さんが入っており、

酒に染まった赤い顔で大声を上げて笑っている。

あまり変な店でもなさそうなので新規開拓に自分用の店として入ってみることとした。

「いらっしゃいませ。こちらのカウンターへどうぞ」

「お絞りをどうぞ」

慎一は熱々のお絞りで顔や手を拭きながらそっと店内を見廻した。

『小料理屋さざなみ』は小さな造りのお店で、

カウンター席8席、奥に6名ほど座れる畳の小あがりがあった。

女将さんは着物を襷掛けにして、髪をアップにし料理を作っている。

その横顔をどこかで見た記憶があったがすぐには思い出せなかった。

「女将さん、まずビールをお願いします」

「はい、生ビールにされます?瓶にされます?」

「最初の一杯は生ビールで」

「はい」

中ジョッキにビール7割、泡3割の生ビールが手元に運ばれてきた。

久しぶりのビールを一気に流し込む。

冷たくほろ苦い柔らかい液体が喉を通り、疲れた身体の隅々まで広がっていく。

知らぬ間に目が閉じられ、五臓六腑に染み渡る心地良い痺れを堪能した。

 

「これは、お通しです。『白イカげその酢味噌和え』です。」

「白いか?ふーん。初めて聞きました」

「えっ?お客様、米子は初めてですか?こちら山陰で獲れるイカなんですよ」

『どれどれ、味はイカガ?』と一切れ口に運んだ。

ちょうどいい塩梅に湯引きされており、小気味よく歯で切れる。

舌には小さな吸盤が当たり、噛んでいくとイカの甘みが口一杯に広がった。

イカ好きの慎一は今までたくさん食べて来ているがこれほどのものは初めてだった。

「美味しいでしょ?

 このイカは年中美味しくて米子の人はみんな大好きなんですよ」

「うん。これはおいしい」

「では白イカを刺身にしましょうか?」

「うん。お願いします」

女将さんは慎一の目の前で手際良く白いかを捌き始めた。

胴体を糸作りにしている。

店の中をよく見ると他の客も白いかの刺身を頼んでいる。

ビールを飲みながら女将さんの包丁裁きに見いっていたが、

ふと襷掛けしている着物の袖から二の腕が一瞬見えて、

少し心臓のリズムが早まったのを感じた。

「はい、どうぞ。次は何をお飲みになりますか?」

「では、次は瓶ビールにします」

 

『白イカの造り』

 瑞々しく光った半透明に透き通る刺身が綺麗に並べられている。

先ず、刺身に山葵を少し盛り、そっと持ち上げる。

山葵を落とさない様にそっと刺身の端へ醤油を付けて口へ運ぶ。

刺身の角が立っておりイカ特有のツルリとした感触が舌に触れる。

歯でそっと噛んでみる。

やや厚めの肉質のわずかな抵抗が歯に伝わり、

噛み切ると切れ端が歯茎や舌に跳ねるほど弾力に富んでいた。

それ以上に驚いた事はそこから訪れる甘みの世界の秀逸さだった。

 

慎一の仕草を微笑ましく見ている女将と目が合い

「いかがですか?まあビールをどうぞ」

「いかがですか?うまい洒落ですね。

 ははは。本当にうまいイカですね。驚きました」

「それは良かった。気に入ってくれてうれしいです」

女将さんに地の魚や米子のことなどを聞きながら、

この四月に四国から転勤してきたことやこの一ヶ月殆ど休む間のなかったことを話した。

「四国なんですか?関西の人と思っていました」

「ああ、生まれは神戸です。転勤族ですから色々なところに行ってます」

「神戸?そうですか。

 私も若い時、少しですけど神戸にいた事があります」

「そうなんや。それは奇遇やねえ」

「そうですね。もうあまり覚えていませんが・・・」

「でも、それはすごくうれしい。またここに来る楽しみが増えた」

「ありがとうございます。いつでもお待ちしています」

女将さんは、刺身がなくなると野菜の煮つけや肉の炒め物など

色々と違う品を出してくれるので慎一は満腹になった。

ここ一ヶ月の疲れもあり腹が一杯になると眠くなりもう帰ることにした。

 

お勘定をしてもらい外に出ると偶然ポニーテールの女の子とすれ違った。

どこかで見た記憶があると考えながら

思い出せないままマンションに帰り、

風呂へ入りすぐにベッドに横になった。

久しぶりの気持ち良い睡眠だった。

その夜の夢は、なぜか『さざなみ』の女将さんと

この前アーケード街で出会った女子高生が出てきて、

二人が作った巨大白イカの造りを必死で食べている慎一がいた。

(つづく)

1.赴任(改)

「次は米子、よなご」

慎一は軽く背伸びをして手元にある人事異動通知書を見た。

               人事異動通知書

高松支店融資部 

日下 慎一  殿

                         関西中央銀行本店

                         人事部長 清水 英雄

貴殿を平成8年4月1日付で山陰支店への異動を命ずる。

岡山駅を11時過ぎに発車した特急やくも9号は、13時過ぎに米子駅へ到着した。

今日3月31日はちょうど日曜日であり、

初出勤の明日は、新年度の始まりで、

少しハードだが張り詰めた気持ちを維持するには最適なスケジュールだった。

昨日まで慌しい期末決算月を何とか乗り切るために駈けずり回り、

土曜日夜中まで引継ぎ資料を作成し、

ほっと一息つけたのは日付が変わってからだった。

 

今朝四国の玄関口と言われる香川県高松市から瀬戸大橋線に乗り、

眼下に広がるおだやかな瀬戸内海の景色を楽しみながら岡山県へ入った。

岡山駅でコーヒーを買い、山陰方面へ向かう伯備線のホームに停まる特急列車に乗り換えた。

伯備線は、山陽地方と山陰地方を結ぶ路線の一つで、中国山地をはさんで鳥取県伯耆国)と岡山県備中国)を結んでおり、伯備の意味はその頭文字を取っている。

岡山駅を出発してしばらくすると街並みも疎になり、こんもりとした森や山が目に入ってきた。

中国山地へ入ったようだ。

新緑の季節を迎えるための準備に入ったかのような勢いがその木々には感じられた。

車窓を流れる山間の小さな集落

樹木に囲まれた小さな駅

川の流れから飛び立つ山鳥の姿などを楽しみながらいつしか眠っていた。

さきほどのアナウンスで目覚めたのだった。

 

あと1時間くらいで引越のトラックが着く時間である。

急いで会社から渡された社宅までの地図を取り出した。

社宅の『道笑町マンション』は10分も歩くと見えてきた。

部屋は最上階の508号室。

管理人へ簡単な挨拶を済ませエレベーターに乗り部屋へ向かう。

部屋のドアを開けて真っ先に目に入ったのは、

南東の窓から見える綺麗な形の山だった。

米子市全体を見守っているようなそんな重みのある立派な姿の山と感じた。

窓を開け放ちベランダで街並みを見ているとインターフォンが鳴った。

引越業者が来たようだ。

元々家具付きの部屋であり、独身で数年毎の転勤が慣例化しているため、

あまり家具もないので荷物の搬入時間はあっと言う間だった。

少し落ち着いたので軽く腹ごしらえをしようと考え近くを散策した。

 

しばらく歩くとアーケード街があった。

『元町サンロード』となっており、歩道は狭く鄙びた風情があった。

あまり歩行者はいないが、

小物売りの店には女子高生達が集まって楽しそうに笑っている。

『フワリ』と突然背中に柔らかい衝撃を感じて振り向くと、

一瞬女子高校生らしき顔が目に入った。

「あっ、ごめんなさい」

「ああ、別にええよ」

慎一の声を聞いて、

その女子高生は視線を慎一の顔へ戻し「良かった」と白い歯を見せた。

その女子高生は健康的に日焼けしており、

陽が当たると少し茶色がかったように見える長い黒髪を

ポニーテールにまとめた細面の可愛い女の子だった。

彼女達は

「もうあんたが押すからじゃない、やめてよ」などと

笑いあって小物店に入っていった。

 

このアーケード街は少し歩くとすぐに終わってしまい戸惑っていると

馥郁としたコーヒーの香りが漂ってきた。

『珈琲浪漫』の看板が目に入り、その立派な木製の扉を開けた。

「カラーン」

「いらっしゃいませ」

使い込まれた飴色の木製の椅子に座り

メニューから「ハワイコナ」を選び注文した。

いつもは「ブラジル」だが、今日は特別の日だったからだ。

マガジンラックの地方紙「ザ・米子」を手に取り読み始めた。

 

米子市の人口は約15万人で、場所は鳥取県の西側島根県に近いところにあり、山陰地方のほぼ中央に位置する町で、東には「伯耆富士」とも呼ばれる国立公園大山(だいせん)、西には日本で2番目の大きさの中海という汽水湖が広がっている。日本海中国山地という豊かな自然に囲まれ、歴史的にも古代出雲王国とも関わりが深く紀元前から歴史を持つ土地だった。

ドライブが趣味で神話や神社を好きな慎一には魅力ある土地だった。

 

翌日の出社からしばらくは毎晩遅く部屋に戻る日々が続いた。

ご飯もそこそこに食べてくたくたに疲れて眠る毎日だった。

慣れない初めての土地であるが、ここ数年融資成績が低迷している山陰地方の融資部へのてこ入れのために、新規開拓で力を認められ異動した自分の立場を自覚している慎一にとって、1日でも早く土地の状況を理解し戦力になりたいと思っていたからだった。

やがて1ヶ月が瞬く間に過ぎ去った。

(つづく)

 

96.特訓5(浅間別荘編5)

翌日も朝のトレーニングで「母の白滝」付近に来た時、

百合が滝つぼ付近の崖に綺麗な花を見つけて立ち止まった。

翔は『先に行ってるね』と声を掛けて戻っていく。

神社を回り別荘への分かれ道を通り過ぎた頃、

振り返るとマリンブルーに太い白いラインが数本入ったスポーツウェアの

百合の小さな姿が目に入る。

滝つぼの近くでまだ花を摘んでいるみたいだった。

 

その時、

翔の視界の隅に映る大きな藪の左側で何かが動いた。

よく見ると丸い黒い何かが動いている。

百合は背中を向けているので気がついていない。

翔は焦って大声で呼んだが、

滝の音が大きく翔からは遠いため、百合には聞こえていない様子。

翔は全速力で走った。

近づいていくと熊だと判明した。

大きな藪の左側にいる熊の視線が右側を向いた。

ちょうど百合のいる方向だった。

熊が百合の方へ走っていく。

百合は全く気がついていない。

 

走っても走っても近づかない。

このままでは百合が背後から襲われてしまう。

まさかこんな所に熊がいるとは思ってもいなかった。

冬眠前の熊は気が荒くて人間でさえも簡単に襲うと聞いている。

熊はとうとう藪から出て百合の背後に出現した。

百合が気配に気付いて振り向いたが、

驚いて固まっているのがわかった。

絶対絶命だった。

 

翔は必死で走りながら百合の方を見た。

その時、視界が揺れて、視界の光景が回りから消えていく。

眉間の奥が熱くなり、『ズーン』と痺れるような感覚が、

その部分から全身へ広がっていく。

その痺れが引いた瞬間に百合と熊の間に立っていた。

後ろの百合から『翔さん・・・』とかすれた声が漏れる。

突然現れた翔に一瞬驚いた熊だったが、

鋭い牙の生えた顎と人間の指ほどの長さと太さのある爪が構えられている。

首元に特徴のある白い輪が見え、両足立ちになり両手を上げて攻撃態勢を整えている。

バトルスーツを着ていないので熊の攻撃を受けることはできない。

 

翔は熊の目をじっと睨みながら百合へと後退りしていく。

やっと百合のところへ着くと、

百合を背中に隠しながら滝つぼの崖方向へ移動して行った。

来るなと願ったが、やはり熊はこちらへ向かって来た。

すごいスピードだった。

吐き出される息吹、野生の匂いが鼻を突く。

このままでは二人とも殺されてしまう。

翔は百合を抱きしめると滝つぼの反対側を見つめた。

『ズーン』という痺れと視界がぼやける。

二人は最初居た滝つぼの反対側の崖の上に移動していた。

襲い掛かった熊は突然、獲物が急に居なくなったため滝つぼへ落ちていった。

(つづく)