はっちゃんZのブログ小説

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48.函館観光2

函館山からの夜景を見て、

その光景を惜しみながらも急いでホテルへと向かう。

夜景観光を念頭に遅めの夕食を予約しているので食事が楽しみだった。

今夜宿泊する「湯の川プリンスホテル渚亭」は、

露天風呂付きの和室で今までのホテルとは違っている。

温泉は24時間湧いているのでいつでも入れるし、他人の目を気にしなくて済む。

 

美波は大喜びしながら、『先ずは』と温泉に足をつけている。

「気持ちいー」という弾んだ声が聞こえてくる。

子供達は抱っこから解放されて、

得意の四つん這いで畳の上を活動している。

静香は荷物整理をしながら『お腹すいたわねえ』と独り言が聞こえる。

「リーン」と部屋の電話が鳴る。

夕食の案内電話だった。

 

個室へ案内されて、ふすまを開けると

テーブルの上には色とりどりの多くの料理が並んでいる。

それを見るみんなの瞳がキラキラと輝いている。

仲居さんが

「これ以外のお料理は、あちらのバイキングコーナーからお取り下さい」

さっそくバイキングコーナーにも顔を出すと食べ切れないくらいの種類の料理が並んでいる。

生の海産物に関しては、ラビスタ函館ベイで食べているので驚きはないが、

テーブル上に盛られた刺身も新鮮で歯ごたえといい甘さといい秀逸だった。

特にイカはやはり夜のものが、身の甘さが倍増されて慎一には美味しかった。

焼き物、地元野菜の煮物、汁椀など子供に食べさせながら平らげていく。

あらかた料理を食べて、バイキングコーナーへ行き、

デザートのフルーツ盛り合わせとミニケーキ盛り合わせ、ジュース、コーヒーを飲む。

子供達もお腹いっぱいになり、活発に部屋中を動いている。

 

部屋に戻ると静香から声を掛けられた。

「あなた、先にお風呂に入って下さい。今日はお疲れ様でした。

 私はあとで美波とこの子達と一緒に入りますから」

言葉に甘えて1番風呂を貰う。

泉質は塩味で加水・加温をしていない源泉100%の温泉と説明されている。

温泉は部屋の海側に作られており、

部屋とはガラスの壁で仕切られている。

洗い場がおよそ畳2畳の面積でシャワーが付いており

浴槽はおよそ畳1.5畳の大きさで深さは70センチ程度、

浴槽内に段になっている場所があり半身浴もできる。

海側の窓ガラスは無く、セメントでうっただけの壁で

高さ1間、幅半間(90センチ)で切り取られており、

その切り取られた空間からは

夜の津軽海峡にポツンと浮かぶイカ釣り船の灯りが光っている。

湯気にほのかな潮の香りが混じっている。

このホテルの海岸部分は、プライベートビーチとなっており

人間が歩くことができないので、女性も安心して部屋の温泉に入り

その風景を見ながらゆっくりと過ごせるのだった。

(つづく)

3.秀峰大山へ(改)

『小料理屋さざなみ』で気持ち良く飲んで眠った翌日、自然に目覚めたのは正午手前だった。

朝昼食兼用でトーストとコーヒーとサラダをニュースを見ながら食べた。

ベランダからは、『秀峰大山』が花曇りの空を背に際立って見える。

 

掃除しながらここ一週間の溜まった洗濯物を洗い、

乾燥後はワイシャツや下着やズボンへアイロン掛けをした。

元々きちんとした性格の慎一は、長い独身生活で

日常ではあまり困ることがなくなっており、

家事に関してはだんだん結婚から遠ざかる自分を感じている。

20歳代はそれなりに恋人もいて結婚も考えていたが、

生活のすれ違いから別れてからは仕事一筋で生きてきた。

 

最近同僚を始めとして最近の若い女性を見ていると

掃除、食事、洗濯、アイロン掛けなど日常生活も苦手な人が多く、

いくらテレビ番組がおもしろおかしく大げさに編集されているとはいえ、

『ただ若いだけ』では彼女たちにそれほど魅力は感じなかった。

 

30歳頃までは母親からしつこく結婚するように言ってきていたが、

35歳を過ぎた頃から教師をしている妹夫婦と住むようになり、

孫の面倒を見始めると何も言わなくなった。

実家は分家なので墓や跡取りとかを気にしなくていいことが幸いだった。

 

明日からは米子市を中心としたエリアのドライブを考えている。

山陰地方の地形的特長として、東西に非常に長く、南北もそれなりに長い。

JRは山口県下関から京都まで東西に一本通っているので海岸沿いの移動には便利だが、南北には不便だった。高速道路は計画段階のものが多くバス移動が主で十分でない。

結局、長時間の運転を覚悟すれば自動車が一番便利な移動手段だった。

昔からドライブや神話・神社を趣味としている慎一には楽しみだった。

 

翌朝すっきりと目が覚めたので少し早めだが、

朝ご飯を食べて大山へ出かけた。

米子市街地から出雲街道(国道181号線)に入り、

米子南インターから米子バイパスへ左折し、

米子東インターで下りれば大山への道に入る。

まだ行き交う車もまばらで、窓から入って来る涼しい風は

新緑の季節を満喫している木々の喜びの香りに満ちていた。

道沿いにはところどころ数台の車が止まっており、

山菜をとる地元の人の姿が見える。

色々な看板がフロントガラスを流れていく。

「大山トムソーヤ牧場」「乗馬センター」「ブルーベリー農園」、

その他ゴルフ場やホテルへの案内だった。

 

そんな中、道路沿いのうっそうと茂る樹木の間にポツンと立つ

ペンションのような外装の『喫茶マナイの家』を見て、

帰りには立ち寄って美味しいコーヒーでも飲もうと考えた。

しばらく走っていると旅館街が見えてきた。

大山寺と大神山神社奥宮を参拝するため駐車場へ車を停めた。

大山寺までの道は旅館や土産物屋・食事処が並んでいた。

まだ昼まで時間はあったが多くの人が歩いている。

 

ネット情報では

『大山寺は、天台宗別格本山角盤山の名称の他に中国観音霊場29番札所、伯耆音霊場14・15札所、出雲國神仏霊場10番札所とされている。奈良時代養老二年(718年)出雲の国玉造りの依道(出家後、金蓮上人)に依って開山されました。昭和の三年四度の火災に見舞われた本堂は昭和二十六年に再建されました。現在も尚、山内寺院十ヶ院、重要文化財阿弥陀堂及び弥陀三尊を初め、宝物類も数多く残され、実に山陰の名刹として、天台でいう所謂鎮護国家霊場として更に、中国地方一円の人々から御先祖様に会える寺として崇敬を集めています』と紹介されている。

 

まず大山寺に着くと、

「本堂」のご本尊の地蔵菩薩

「下山観音堂」のご本尊の十一面観音菩薩様(控仏)

阿弥陀堂」のご本尊の阿弥陀三尊像

護摩堂」のご本尊の不動明王様へと順次厳かな気持ちでお参りした。

そして霊宝閣の十一面観音菩薩様を始めとして多数の仏像に見入った。

昔から多くの人々が一心にお祈りを捧げてきたのだと思うと心が落ち着いてくる。

慎一は仏を前にして心を空にして、ただひたすら自らの健康と無事に感謝した。

 

次は、『大神山神社奥宮』への道を探した。

大神山神社奥宮までは、うっそうと茂る森の中、自然石による参道が続いている。

神門が見え、その奥に佇む奥宮が見えた時、慎一は息を呑んだ。

日本最大級の権現造りの立派なその造りに、

そして奥宮内部の華麗さに、

天井画の鮮やかさに感動し、厳かな気持ちで参拝した。

 

縁起には

御祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ・奥宮)又は、大穴牟遅神(おおなむぢのかみ・本社)様で、どちらも大国主神のお若いときのお名前だった。大己貴神(大国主神)は古事記日本書紀出雲風土記等の神話・伝説の主人公の一人であり、特に国造りをされたことから産業発展、五穀豊穣、牛馬畜産、医薬療法、邪気退散の神と紹介されている。

確かにはるか昔、古代それも日本創世の時代の話である。

慎一は京阪神・四国などで今まで多くの神社に参拝したが

これほど古い歴史のある宮には参拝したことはなかったので感動した。

大山寺へ下りて来ると少し汗ばんでおり、喉が渇いていたが

自販機で飲み物を買うのを我慢して朝に見つけた喫茶店へ直行した。

 

『喫茶マナイの家』では幸いなことに駐車場には1台も車が無かった。

ゆっくりとコーヒーの香りと味を楽しむには1人が1番だったからだ。

入口で靴を脱いで、いい香りのする板張りの廊下を進んだ。

可愛い英国製のアンティークが部屋中に飾られていた。

「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」

案内された部屋は木製のテーブルと椅子が8セットほど並べられている。

 

案内された時、テーブルにそっと置かれた水滴のついたコップの水。

その水滴に宿る光に惹きこまれて、ついついメニューを見る前に、

軽く喉を潤すためにそのコップの水を飲んだ。

「!!!???」

この水は声にならない美味しさだった。

慎一は一気に飲んでしまっていた。

ほんの少しのリンゴ果汁でも絞り込んでいるかのような

しつこくない甘みと喉通りの爽やかさ!

「このお水をもう一度下さい。本当に美味しいですね。

 何かされているのですか?」

「いえ、このお水は毎朝、『天の真名井』まで行って汲んできたそのままです。このお水でコーヒーや紅茶も作ります」

慎一は、ブレンドコーヒーを頼んだ。本当に楽しみだった。

しばらくすると

「ボーン、ボーン、ボーン」とアンティークの時計が鳴った。

入口方向から新しいお客さんの足音がしてきた。

ほんの少しの間に半分ほどの席が埋まった。

やがてコーヒーが運ばれてきた。

 

カップの隣には、英国製であろうビスケットが二本置かれている。

さてコーヒーは如何にと一口含む・・・

果たして、

出会ったコーヒーは『雑味が全く無い綺麗なコーヒー』だった。

良い水と良い豆だけを贅沢に使い出来上がった、

英国製を髣髴させる秀逸の一品であった。

少し飲んでは、ビスケットをかじり、

また飲んでは、その絶妙なうまさに『フウ』とため息をつく。

その繰り返しでいつの間にか、至福の時間が過ぎ去った。

コーヒーの代金を支払って帰ろうとしていると、

二階にあるアンティークコーナーへの案内板があった。

そこにはアンティークの趣味の人ならば喜ぶ品がそこかしこに陳列されていた。

 

すごく幸せな気持ちで家へ向かっている途中、

地元のスーパーマーケットに寄り、

大山鶏と白菜など野菜を買った。

久しぶりに『水炊き』でたっぷりと野菜を食べるつもりだった。

ちなみに世間でよく言われている水炊きは、九州の水炊きを指しており、

地鶏をたっぷりと使いガラを煮込んで真っ白に濁った出汁を使う鍋だが、

慎一の作る『水炊き』は、日下家でしょっちゅう食べていたもので、それらの鍋とは異なる『サラサラ鶏の水炊き』だった。

 

作り方は簡単で鍋に水を張り日本酒と昆布を入れて火にかける。

昆布の出汁が出たら、鍋から出して刻んでおく。

すぐに鶏肉を入れて少し火が通ったら豆腐、白菜、椎茸、人参、長ネギを入れるだけ。

付けダレは、ポン酢に醤油を入れても良し、醤油にスダチやカボスを絞り込んでも良し、味ポンスダチやカボスを絞り込んでも良し、味ポンにポン酢を入れても良しと、とにかく醤油味と酸味と若干の甘みがあれば何でも良かった。

作った付けダレに七味を振り込んでたっぷりの野菜と鶏肉を食べる。

ご飯にも刻んだ昆布を振り、肉や野菜の出汁の出たお汁をかけて、

お茶漬けの感覚で具と一緒にご飯も頂いていく。

 

この『サラサラ鶏の水炊き』の良いところは、

作り方が簡単で誰でも作ることができる点、

肉や野菜をバランス良くたくさん食べられる点、

しつこくないので冬だけでなく夏でも食べられる点、

翌日にも味を変えた鍋を楽しめる点、

この出汁そのものはサラサラしており、

どんな味にも変化させることができる点だった。

 

翌日のメニューは『豚の味噌炊き』に決まっていた。

残った水炊きの出汁に豚肉の細切れと豆腐、白菜、モヤシ、長ネギ、麩などを入れ煮込み、味噌や砂糖で若干甘めに味付けして、

またもご飯に具や汁をかけて七味を振った具と一緒に食べていく。

この二つの鍋は、酒・ご飯、どちらでも美味しく一緒に頂けるので便利だった。

(つづく)

2.「さざなみ」初来店(改)

明日から久しぶりの大型連休で十連休となった。

4月は年度初めであり、融資部全員一丸となって高い目標で動いたが、

残念ながらいい成績は出なかった。

連休前の4月27日夕方は、職場の同僚もソワソワしている。

恋人や家族との旅行を控えた人が多いようで

口々に「お疲れ様でした」とそそくさと退社していく。

慎一は特に計画もなかったが、米子市近辺のドライブでもしてみようと考えていた。

 

今日の晩御飯こそは、久しぶりにゆっくりと食べて飲んでみようと

米子市の繁華街の一角の角盤町へ出てみることとした。

角盤町の路地には夕暮れに家路へと急ぐ人達に混じり、

もうだいぶアルコールが入った様子の数人の酔客も歩いている。

町の様子を見ながら何気なく少し細めの路地へ目を移した。

 

小さな看板で『さざなみ』と板書された小料理屋が目に入った。

暖色系のライトが、さざなみの四文字を抜き取った水色地の新しい暖簾を照らしている。

暖簾から中を覗くともうすでに数名のお客さんが入っており、

酒に染まった赤い顔で大声を上げて笑っている。

あまり変な店でもなさそうなので新規開拓に自分用の店として入ってみることとした。

「いらっしゃいませ。こちらのカウンターへどうぞ」

「お絞りをどうぞ」

慎一は熱々のお絞りで顔や手を拭きながらそっと店内を見廻した。

『小料理屋さざなみ』は小さな造りのお店で、

カウンター席8席、奥に6名ほど座れる畳の小あがりがあった。

女将さんは着物を襷掛けにして、髪をアップにし料理を作っている。

その横顔をどこかで見た記憶があったがすぐには思い出せなかった。

「女将さん、まずビールをお願いします」

「はい、生ビールにされます?瓶にされます?」

「最初の一杯は生ビールで」

「はい」

中ジョッキにビール7割、泡3割の生ビールが手元に運ばれてきた。

久しぶりのビールを一気に流し込む。

冷たくほろ苦い柔らかい液体が喉を通り、疲れた身体の隅々まで広がっていく。

知らぬ間に目が閉じられ、五臓六腑に染み渡る心地良い痺れを堪能した。

 

「これは、お通しです。『白イカげその酢味噌和え』です。」

「白いか?ふーん。初めて聞きました」

「えっ?お客様、米子は初めてですか?こちら山陰で獲れるイカなんですよ」

『どれどれ、味はイカガ?』と一切れ口に運んだ。

ちょうどいい塩梅に湯引きされており、小気味よく歯で切れる。

舌には小さな吸盤が当たり、噛んでいくとイカの甘みが口一杯に広がった。

イカ好きの慎一は今までたくさん食べて来ているがこれほどのものは初めてだった。

「美味しいでしょ?

 このイカは年中美味しくて米子の人はみんな大好きなんですよ」

「うん。これはおいしい」

「では白イカを刺身にしましょうか?」

「うん。お願いします」

女将さんは慎一の目の前で手際良く白いかを捌き始めた。

胴体を糸作りにしている。

店の中をよく見ると他の客も白いかの刺身を頼んでいる。

ビールを飲みながら女将さんの包丁裁きに見いっていたが、

ふと襷掛けしている着物の袖から二の腕が一瞬見えて、

少し心臓のリズムが早まったのを感じた。

「はい、どうぞ。次は何をお飲みになりますか?」

「では、次は瓶ビールにします」

 

『白イカの造り』

 瑞々しく光った半透明に透き通る刺身が綺麗に並べられている。

先ず、刺身に山葵を少し盛り、そっと持ち上げる。

山葵を落とさない様にそっと刺身の端へ醤油を付けて口へ運ぶ。

刺身の角が立っておりイカ特有のツルリとした感触が舌に触れる。

歯でそっと噛んでみる。

やや厚めの肉質のわずかな抵抗が歯に伝わり、

噛み切ると切れ端が歯茎や舌に跳ねるほど弾力に富んでいた。

それ以上に驚いた事はそこから訪れる甘みの世界の秀逸さだった。

 

慎一の仕草を微笑ましく見ている女将と目が合い

「いかがですか?まあビールをどうぞ」

「いかがですか?うまい洒落ですね。

 ははは。本当にうまいイカですね。驚きました」

「それは良かった。気に入ってくれてうれしいです」

女将さんに地の魚や米子のことなどを聞きながら、

この四月に四国から転勤してきたことやこの一ヶ月殆ど休む間のなかったことを話した。

「四国なんですか?関西の人と思っていました」

「ああ、生まれは神戸です。転勤族ですから色々なところに行ってます」

「神戸?そうですか。

 私も若い時、少しですけど神戸にいた事があります」

「そうなんや。それは奇遇やねえ」

「そうですね。もうあまり覚えていませんが・・・」

「でも、それはすごくうれしい。またここに来る楽しみが増えた」

「ありがとうございます。いつでもお待ちしています」

女将さんは、刺身がなくなると野菜の煮つけや肉の炒め物など

色々と違う品を出してくれるので慎一は満腹になった。

ここ一ヶ月の疲れもあり腹が一杯になると眠くなりもう帰ることにした。

 

お勘定をしてもらい外に出ると偶然ポニーテールの女の子とすれ違った。

どこかで見た記憶があると考えながら

思い出せないままマンションに帰り、

風呂へ入りすぐにベッドに横になった。

久しぶりの気持ち良い睡眠だった。

その夜の夢は、なぜか『さざなみ』の女将さんと

この前アーケード街で出会った女子高生が出てきて、

二人が作った巨大白イカの造りを必死で食べている慎一がいた。

(つづく)

1.赴任(改)

「次は米子、よなご」

慎一は軽く背伸びをして手元にある人事異動通知書を見た。

               人事異動通知書

高松支店融資部 

日下 慎一  殿

                         関西中央銀行本店

                         人事部長 清水 英雄

貴殿を平成8年4月1日付で山陰支店への異動を命ずる。

岡山駅を11時過ぎに発車した特急やくも9号は、13時過ぎに米子駅へ到着した。

今日3月31日はちょうど日曜日であり、

初出勤の明日は、新年度の始まりで、

少しハードだが張り詰めた気持ちを維持するには最適なスケジュールだった。

昨日まで慌しい期末決算月を何とか乗り切るために駈けずり回り、

土曜日夜中まで引継ぎ資料を作成し、

ほっと一息つけたのは日付が変わってからだった。

 

今朝四国の玄関口と言われる香川県高松市から瀬戸大橋線に乗り、

眼下に広がるおだやかな瀬戸内海の景色を楽しみながら岡山県へ入った。

岡山駅でコーヒーを買い、山陰方面へ向かう伯備線のホームに停まる特急列車に乗り換えた。

伯備線は、山陽地方と山陰地方を結ぶ路線の一つで、中国山地をはさんで鳥取県伯耆国)と岡山県備中国)を結んでおり、伯備の意味はその頭文字を取っている。

岡山駅を出発してしばらくすると街並みも疎になり、こんもりとした森や山が目に入ってきた。

中国山地へ入ったようだ。

新緑の季節を迎えるための準備に入ったかのような勢いがその木々には感じられた。

車窓を流れる山間の小さな集落

樹木に囲まれた小さな駅

川の流れから飛び立つ山鳥の姿などを楽しみながらいつしか眠っていた。

さきほどのアナウンスで目覚めたのだった。

 

あと1時間くらいで引越のトラックが着く時間である。

急いで会社から渡された社宅までの地図を取り出した。

社宅の『道笑町マンション』は10分も歩くと見えてきた。

部屋は最上階の508号室。

管理人へ簡単な挨拶を済ませエレベーターに乗り部屋へ向かう。

部屋のドアを開けて真っ先に目に入ったのは、

南東の窓から見える綺麗な形の山だった。

米子市全体を見守っているようなそんな重みのある立派な姿の山と感じた。

窓を開け放ちベランダで街並みを見ているとインターフォンが鳴った。

引越業者が来たようだ。

元々家具付きの部屋であり、独身で数年毎の転勤が慣例化しているため、

あまり家具もないので荷物の搬入時間はあっと言う間だった。

少し落ち着いたので軽く腹ごしらえをしようと考え近くを散策した。

 

しばらく歩くとアーケード街があった。

『元町サンロード』となっており、歩道は狭く鄙びた風情があった。

あまり歩行者はいないが、

小物売りの店には女子高生達が集まって楽しそうに笑っている。

『フワリ』と突然背中に柔らかい衝撃を感じて振り向くと、

一瞬女子高校生らしき顔が目に入った。

「あっ、ごめんなさい」

「ああ、別にええよ」

慎一の声を聞いて、

その女子高生は視線を慎一の顔へ戻し「良かった」と白い歯を見せた。

その女子高生は健康的に日焼けしており、

陽が当たると少し茶色がかったように見える長い黒髪を

ポニーテールにまとめた細面の可愛い女の子だった。

彼女達は

「もうあんたが押すからじゃない、やめてよ」などと

笑いあって小物店に入っていった。

 

このアーケード街は少し歩くとすぐに終わってしまい戸惑っていると

馥郁としたコーヒーの香りが漂ってきた。

『珈琲浪漫』の看板が目に入り、その立派な木製の扉を開けた。

「カラーン」

「いらっしゃいませ」

使い込まれた飴色の木製の椅子に座り

メニューから「ハワイコナ」を選び注文した。

いつもは「ブラジル」だが、今日は特別の日だったからだ。

マガジンラックの地方紙「ザ・米子」を手に取り読み始めた。

 

米子市の人口は約15万人で、場所は鳥取県の西側島根県に近いところにあり、山陰地方のほぼ中央に位置する町で、東には「伯耆富士」とも呼ばれる国立公園大山(だいせん)、西には日本で2番目の大きさの中海という汽水湖が広がっている。日本海中国山地という豊かな自然に囲まれ、歴史的にも古代出雲王国とも関わりが深く紀元前から歴史を持つ土地だった。

ドライブが趣味で神話や神社を好きな慎一には魅力ある土地だった。

 

翌日の出社からしばらくは毎晩遅く部屋に戻る日々が続いた。

ご飯もそこそこに食べてくたくたに疲れて眠る毎日だった。

慣れない初めての土地であるが、ここ数年融資成績が低迷している山陰地方の融資部へのてこ入れのために、新規開拓で力を認められ異動した自分の立場を自覚している慎一にとって、1日でも早く土地の状況を理解し戦力になりたいと思っていたからだった。

やがて1ヶ月が瞬く間に過ぎ去った。

(つづく)

 

96.特訓5(浅間別荘編5)

翌日も朝のトレーニングで「母の白滝」付近に来た時、

百合が滝つぼ付近の崖に綺麗な花を見つけて立ち止まった。

翔は『先に行ってるね』と声を掛けて戻っていく。

神社を回り別荘への分かれ道を通り過ぎた頃、

振り返るとマリンブルーに太い白いラインが数本入ったスポーツウェアの

百合の小さな姿が目に入る。

滝つぼの近くでまだ花を摘んでいるみたいだった。

 

その時、

翔の視界の隅に映る大きな藪の左側で何かが動いた。

よく見ると丸い黒い何かが動いている。

百合は背中を向けているので気がついていない。

翔は焦って大声で呼んだが、

滝の音が大きく翔からは遠いため、百合には聞こえていない様子。

翔は全速力で走った。

近づいていくと熊だと判明した。

大きな藪の左側にいる熊の視線が右側を向いた。

ちょうど百合のいる方向だった。

熊が百合の方へ走っていく。

百合は全く気がついていない。

 

走っても走っても近づかない。

このままでは百合が背後から襲われてしまう。

まさかこんな所に熊がいるとは思ってもいなかった。

冬眠前の熊は気が荒くて人間でさえも簡単に襲うと聞いている。

熊はとうとう藪から出て百合の背後に出現した。

百合が気配に気付いて振り向いたが、

驚いて固まっているのがわかった。

絶対絶命だった。

 

翔は必死で走りながら百合の方を見た。

その時、視界が揺れて、視界の光景が回りから消えていく。

眉間の奥が熱くなり、『ズーン』と痺れるような感覚が、

その部分から全身へ広がっていく。

その痺れが引いた瞬間に百合と熊の間に立っていた。

後ろの百合から『翔さん・・・』とかすれた声が漏れる。

突然現れた翔に一瞬驚いた熊だったが、

鋭い牙の生えた顎と人間の指ほどの長さと太さのある爪が構えられている。

首元に特徴のある白い輪が見え、両足立ちになり両手を上げて攻撃態勢を整えている。

バトルスーツを着ていないので熊の攻撃を受けることはできない。

 

翔は熊の目をじっと睨みながら百合へと後退りしていく。

やっと百合のところへ着くと、

百合を背中に隠しながら滝つぼの崖方向へ移動して行った。

来るなと願ったが、やはり熊はこちらへ向かって来た。

すごいスピードだった。

吐き出される息吹、野生の匂いが鼻を突く。

このままでは二人とも殺されてしまう。

翔は百合を抱きしめると滝つぼの反対側を見つめた。

『ズーン』という痺れと視界がぼやける。

二人は最初居た滝つぼの反対側の崖の上に移動していた。

襲い掛かった熊は突然、獲物が急に居なくなったため滝つぼへ落ちていった。

(つづく)

47.函館観光1

宿泊したラビスタ函館ベイの前を通過し、「金森赤レンガ倉庫」に着いた。

ネットでは、この倉庫は明治期に建てられたもので、現在倉庫群を利用したショッピング&食事スポットとして人気と書いてある。確かに多くの観光客が歩いており、祭り期間中でもありどの店も満員のようだったので車から降りなかった。

次は、「基坂」と「八幡坂」である。

国道から末広町の高台まで一直線の道を進む。

函館は坂の多い街として有名で、

その中で有名な坂としては「基坂」と「八幡坂」がある。

基坂」は、函館から札幌へ向かう函館本道の起点で、里数を計る元標が建てられたことからその名がついた。

八幡坂は、昔、八幡神社があった頃から、その名前の「八幡」が残った坂道で、坂の上から一直線に海まで道が続いており、一番景色がいい坂といわれている。

非常に眺めがよいことから、CMやドラマにもよく使われているらしい。

ちょうど八幡坂の頂点部分でユーターンして道路脇に駐車しその景色を見る。

沿道に並ぶ夏の強い日差しをも吸収する濃緑の樹木がまっすぐに並び、

遥か遠くまで霞む港まで舗装された道路が続いている。

末広町付近には、多くの家や教会、喫茶店、レストランが並んでいる。

ところどころ昔の茶店風の木の温もりを感じる可愛いお店も見える。

明治時代の息吹が色濃く流れる街であった。

 

本日の宿泊予定の湯の川温泉にある「湯の川プリンスホテル渚亭」を目指しながら

その途中にあるトラピスチヌ修道院を訪れた。

この修道院の正式名称は、「天使の聖母トラピスチヌ修道院」、通称「天使園」とも言われている。日本初の女子修道院で、現在も厳格な戒律のもとで修道女が祈りと労働を中心とした自給自足の生活を送っている。

近くの駐車場に停め、寺院へ続く階段を上りながら、

「大天使聖ミカエル像」「慈しみの聖母マリア像」「ルルドの聖母」

聖テレジア像」「ジャンヌダルクの像」とたくさんの像が迎えてくれた。

その静謐な佇まいの中に漂う空気に強い宗教心が張り詰めているように感じた。

天使園の売店で修道女手作りの「マダレナ(マドレーヌ)」と「クッキー」を買った。

心地良い噛み心地と素材の優しい味とほのかな甘さが舌に残った。

これは後日コーヒーや紅茶で飲むことを考えて多めに買った。

 

修道女の厳しい生活を垣間見ながら、湯の川温泉「渚亭」へ向かう。

とりあえずチェックインし

荷物を部屋へ置き身軽になって再度函館市内へ向かう。

そろそろ夕方であり、函館山展望台からの夜景観光に出発した。

函館山は標高334mで、ロープウェイで登り、

展望台から見える風景は市街と函館港が一望におさまるため特に有名である。

函館山ロープウェイの駐車場に車を停めてロープウェイ客の列に並ぶ。

このロープウェイは大型で125名が乗り込むことができ、山頂まで3分で到着する。

家族がロープウェイに乗る頃にはちょうど夜の帳が降りてきている。

展望台に着く頃には、

水平線に星が瞬き太陽が沈んだ方向の夜空には名残の光が見える。

そこかしこから「オオー」「綺麗」の声が漏れてくる。

函館の街並みと港で輝く光の海、そしてそれらを囲む薄暗い海、

そのコントラストと綺麗な光の光景は目に焼きついた。

家族全員、その光景に目を奪われた。

(つづく)

95.特訓4(浅間別荘編4)

この一帯は山間部のせいか朝が遅い。

二人が眠りから覚めてもまだ暗い。

やがていつもより弱く揺れるような光が差し込んできた。

カーテンを開けると

富士山が昇る朝日に照らされ、

山中湖湖面に反射し

その光が窓から差し込んできている。

 

二人はいつものロードワークに出た。

別荘から「母の白滝」「河口浅間神社」をルートとして

翔は2周走り、百合は1周で朝食の準備に別荘へ戻っていった。

別荘に戻って庭でいつもの鍛錬を行っていると

百合から朝食の声がかかった。

鍛錬でびっしょりとかいた汗をシャワーで流し食卓へついた。

食後の美味しいお茶を飲みながらゆっくりとして特訓の時間に入った。

 

特訓と言っても二人で考えてもなかなかアイデアが思いつかなかった。

別荘の庭で目標の木の隣付近をじっと見つめて『跳ぼう』としても何も起こらない。

座禅を組んで精神統一をして半眼で目標をじっと見つめていても何も起こらない。

過去の跳んだ時と同じ状況を意識しても何も起こらない。

それならと息が上がるまで動いて試しても何も起こらない。

滝から飛び降りる事も考えたが、仮に失敗した場合は生きていないし

百合が絶対に反対するので諦めた。

 

じっと見ていた百合から

「あまり無理しても仕方ないから、気分転換に以前の様に河口湖を散策しない?」

と声がかかった。

焦っても仕方ないのでとりあえず午後は散策に向かった。

 

相変わらず河口湖湖畔では、多くの観光客が歩いている。

百合は翔と手をつなぎながら色々と見て回った。

以前の婚約旅行の時を思い出して二人とも嬉しかった。

以前借りたレンタサイクル店で再度借りて、

さっそく二人で湖畔を1周することにした。

 

相変わらず自然が保護されているのだろう

湖水面からはコイ、フナなどの多くの魚影が映っている。

今回も湖の中にある富士五湖で唯一の島「うの島」がよく見える。

湖面を渡る風にそよぐ百合の長い髪と翔へ向けられる笑顔が輝いている。

  

 

その後、少し遠出をして「中ノ倉峠展望地」へ行くことにしている。

中ノ倉峠展望地は、山梨県道709号沿いにある登山口から徒歩30分ほどの場所で、本栖湖の全景と富士山の姿が堪能できる絶景スポットだった。設置されている展望デッキには30人が並べるほどの面積で、今日は快晴だったため千円札と同じ逆さ富士が眼前に広がっていた。

次に富士山世界遺産センターへ行った。

この施設は富士スバルライン沿いにあり、富士山の魅力などについて楽しみながら学べる体験型展示観光施設だった。館内中央には、富士山を1,000分の1スケールで表現した巨大オブジェ「冨嶽三六〇」があり、照明や音響演出によって四季の移り変わりが再現されていた。この地でなければ見る事のできない富士山の顔を全ての人に見せていた。現実の展示空間とデジタルの融合によるすばらしい体験だった。

(つづく)

46.青森から函館へ-竜飛海底駅-

 ねぶた祭り2日目の朝、JRで青森駅から函館駅へ向かう途中、

竜飛海底駅」に降りて観光することにした。

見学時間は2時間30分。

駅に到着し、車掌さんが非常コックを使いドアを開け、

緑のジャケットを着たガイドさんに続いて観光客は降りる。

ホームに降りると夏にも関わらず涼しい空気が流れている。

本坑から直角の建設されている若干薄暗い連絡誘導路へ移動していく。

ホームは480メートルと、東京駅の新幹線ホーム(410メートル)よりも長く、

最大編成の新幹線(17両)の停車にも耐えられるように建設された。

ベンチが並んでいる場所でガイドさんから見学ツアーのスケジュール説明を聞く。

ホーム誘導路の駅名プレートが目に入った。

白地に大きくひらがなで「たっぴかいてい」その下に漢字で「竜飛海底」、

その下に緑地の両矢印へ「←Tappi-kaitei→」、

最下段に「つがるいまべつ よしおかかいてい」と印刷されている。

普段は駅名プレートをしみじみと見る趣味はないのだが、

今回は初めてじっくりと見ていると、何となくここは津軽海峡の海底の駅、海面下140mもの深さにある駅なんだという実感が湧いてきた。

これより作業坑側に進む先にあるホームへの誘導路には、コンクリートの厚みが側面30cm 床面20cmであることが壁面に印字されており、その先にある連絡通路内に設置されている金属製の棚へ荷物を預けた。

ふと見上げるとトンネル上部には電線や空気ダクト、水道管などがひしめきあっている。

やがてケーブル斜坑の入り口が見え、そこからは壁がそれまでコンクリートだったものから吹付コンクリートの壁に変わっている。

吉岡海底駅に繋がっている通路もあるそうで、以前は歩いて吉岡定点まで行くイベントも行われていたようだが現在は行われていないようだ。

このまま避難所がある左側に進むとトンネル内で湧出た水を地上に配水するポンプ設備が見えた。平常時は常に1台が稼働しているとの説明で、常時強烈な水圧と染み出てくる水との戦いがあることに気がついた。

毎分排出される水量が約20000リットル。ポンプで排水された水は、ほとんどが海に流されますが、その一部は龍飛地区小水力発電所で発電に使われ、この水は海水と地下水(淡水)が混じった汽水ということで、チョウザメやヒラメ・イトウの飼育をする試験が行われていると説明された。

避難所に到着。ここにはトイレと公衆電話と更衣室が設置されている。

避難所を奥に進むと、頑丈な防風扉が見えてきた。奥にもう一つの扉があり、強い風が発生しないように簡単なエアロック状態となっている。

2つ目の防風扉を通過すると竜飛海底駅外のエリアとなり、青函トンネル記念館の地下展示施設・体験斜坑が展示されている。記念館に飾られている多くの写真は工事中の写真で工事の苦労や技術について細かく解説されており、体験斜坑コーナーでは、トンネル掘削で利用した機器や説明パネルなどが展示されている。

 

ここまで来ると「地上部へ出る竜飛斜坑口」とのアナウンスがあった。

青函トンネル竜飛斜坑鉄道のケーブルカー「もぐら号」に乗り込み地上を目指す。

乗り心地は、振動が激しく、ピコンピコンと警告音が絶えず流れ、騒がしかった。

窓から眩しい光が差し込んで地上の青函トンネル記念館駅にたどり着く。

地上駅はコンクリートの建物で、記念館の外からは津軽海峡が見える。

自由時間は約40分で、残念ながら竜飛岬まで行く事は出来なかった。

記念館には青函トンネルや使った機器などの説明展示をしており、慌しく見て回った。

すぐに集合時間が来て、ケーブルカーに乗り込み、再び海底駅、ホームへと向かった。

慌しい見学ではあったが、当時の最高技術を目にすることができたこと。

多くの人々の力が結集されてできた奇跡の工事であったことが理解できた。

しばらくすると帰りの特急白鳥が到着し、見学客は全員乗り込み函館駅を目指す。

函館駅周辺の3日目のみなと祭りを楽しむ人達に交じり、

屋台などで簡単なお昼ご飯を食べて乗車する。

先ずは五稜郭を目指したが、道路も駐車場もいっぱいで動けない状態だった。

五稜郭はまた別の機会にと考えて車で見ることのできる観光地を考えた。

(つづく)

94.特訓3(浅間別荘編3)

ビールで咽喉を潤してしばらく休んだ二人は、

いつものように鍛錬の時間に移った。

二人は別荘の外へ出て庭で鍛錬を行った。

一時間ほどして百合が夕飯を作りに別荘へ入っていく。

翔はたっぷりと2時間掛けて柔軟から格闘訓練まで行い、

全身が汗でびっしょりとなっている。

ちょうど終わると思われる時間に百合から声がかかった。

 

夕飯の献立は

食前酒として、淡い桜色の冷やしたロゼワインさくらんのワイン』

メインのワインは、『シャトーブリヤン2013』

翔のお気に入りの厚さ2センチの『富士山麓牛』400gのステーキ。

たっぷりのサラダと具沢山のスープ。

そしてまたまた翔のお気に入りの『ミルキークイーン』のおむすびが添えられている。

 

ちなみに

さくらんのワイン』は、山梨県産の甲州ぶどうとマスカットベリーAのぶどうを主原料にしたロゼワインで、サクランボの実を入れ、ほのかなサクランボの香りとフルーティーな甘さで冷やして飲むとほのかに春が感じられるものだった。

『シャトーブリヤン2013』は、ワインの醍醐味ともいえる長期熟成を経て味わう仕上がり1946年からのベストセラー商品らしくやわらかな果実の風味が落ち着きを感じさせた。

『富士山麓牛』は、赤身そのものの旨味が濃く、

噛めば噛むほど細かく交じり合った脂身の甘味が口中でほどけてくる。

ミルキークイーンのおむすびは

この米特有の優しい甘さといい、のどこしの良さといいバランスの取れたお米で、

空気を入れて優しく丸められたおむすびは最高に美味しかった。

前回、翔が初めて食べてファンとなったお米だった。

 

食事の後は、テレビや映画を見てゆっくりとして

二人で『信玄公の隠し湯』から浴室へ泉源を引いているお風呂に入った。

明日からの特訓のために早く寝ようと思ったが、

いい匂いの可愛い百合を見ているとそうならず、

ついついいつものように二人は抱き合った。

久しぶりにふたりきりになって変わったところは、

いつもの百合より少し感じやすくなり、

ほんの少しだけ大胆になった百合がいたことだった。

(つづく)

45.ねぶた祭り4-祭り本番-

ねぶた祭りについては、青森ねぶたオフィシャルサイトの紹介では以下である。

七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。

初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったのでしょう。そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れています。

「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民俗語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。

その他の情報としては、青森ねぶた祭りの一番の特色は、「ハネト(踊子の意味)の大乱舞」らしくどのようなものかがとても興味深かった。

 

ねぶたは決められたコースを一方向に全ねぶたが同時に動き始める。

そのコースは、青森駅前のアスパム通り交差点から柳町通りを通過し、中央公園通りで右折し、国道4号線に突き当たると右折しアスパム通りに突き当たると右折して駅前のアスパム通り交差点まで続く四角のコースであった。

多くの観光客がぞろぞろと歩道を歩いて、見るのにいい場所を探している。

ねぶたも待機しており、踊り子は興奮した表情で既に道路に待機している。

本日と明日は、子どもねぶた(約15台予定)・大型ねぶた(約15台予定)で有名ねぶたも数多く出陣されているらしい。

 

開始予定時間の19時になったとたん、

街中から一斉に笛(篠笛)、太鼓(締め太鼓)の派手な音と『ハネト』と呼ばれる踊子の持つ手振り鉦(ジャガラギ・テビラガネとも言われる)の『シャン、シャン』と言う音が響き渡った。

先ず最初に目がひきつけられるのは、

目などに光が入り極彩色に輝く大きなねぶた。

職人が時間を掛け、ねぶた祭りへの思いを練り込めたねぶた。

装飾の施された高さ2mの車付きの台に載せられ、高さ5mくらいのものとなったそれは、見る人を驚かせ楽しませ感心させる。

「大型ねぶた」は、担ぎ子が観客へすごい勢いで突っ込むような勢いで観客を驚かせ喜ばせている。

歌舞伎のメイクの様な色彩のねぶたが多く、戦いに強く勇ましい男を表しているものが多かった。

慎一は歴史で習った蝦夷討伐を思い出しながら、青森ねぶた祭り全体を流れる静かで厳かなムードから、兵隊への必勝祈願、無事に帰ってきて欲しい心、亡くなった方への感謝の気持ちが作り出した祭りであることを感じた。

 

花笠をかぶりねじり鉢巻に揃いの半纏のたくさんのハネトが

そこらじゅうを練り歩きながら飛び跳ねて踊っている。

ねぶたの動きに合わせてついていく。

小型の「子供ねぶた」も同様に参加している。

大型ねぶたに負けじと大きな掛け声を発し、観客へ突っ込んで行く。

子供達が慣れない手で作ったであろうねぶただが、

それが逆に大型ねぶたと違って手作りに見えることで可愛かった。

家族で道端に座って21時の終了までじっと見ていた。

 

ネットにも載っていたが、「阿波踊りのニワカ連」ではないけれど、

地元の人間ではない観光客などが集まり同じように踊る集まりもあるようで、

バラバラの服装のハネトがピョンピョン跳ねているのが見える。

観光するだけでなく地元民と同じ気持ちで祭りに参加して、

この東北地方でも大きな祭りを盛り上げて、

短い夏を目一杯楽しもうとしているように見えた。

子供達は、両親の膝に抱っこされながら、

目を輝かせてねぶたを見上げて、足をピンピン延ばして

両手を動かせてハネトに参加していた。

その夜はホテルで今後何度か青森に来ようという話となった。

(つづく)

93.特訓2(浅間別荘編2)

今回は別荘に行く前に「河口浅間神社」へお参りし

この度の特訓がうまく行くように必死でお願いした。

この神社は安産や良縁の神様だが、百合との事や様々なお願いの一つにした。

館林家の別荘は「河口浅間神社」と「母の白滝」の間の道から少し入った高台にある。

突き当たりの鬱蒼とした林の中に建っており外面は鉄筋コンクリートの洋館だった。

窓からは真っ白の富士山を映す紅葉に染まる河口湖が目の前に広がっている。

以前来た時は夏だったので湖の様子が異なっているがこちらの方が綺麗だった。

 

百合が豪華な樫の木の扉を開けて入っていく。

それに続き、荷物を一杯に担いだ翔が入っていく。

既に空調は動いていたようで、

部屋の空気もしばらく使わなかったようなカビ臭さも一切無かった。

暖炉にも薪が入っており揺れる炎の暖かい光が部屋を照らしている。

 

二人だけの生活は久しぶりだった。

事務所ビルに生活用の部屋はあるが、

警備用のロボット犬「ロビン」が歩いているし、

事務所にはアスカが常に待機している。

二人ともなるべく気にしないようにしているが

やはり彼らの目が気になって少しは遠慮している。

しかし、両一族の重要人物である二人には

常に優子からバトルヘルメットやテレビなどへ

別荘周りの状況などが送られてくる。

本当の所は二人きりとは言えないが十分に二人だけの生活だった。

 

翔は百合が忙しげに荷物整理をしている間、

暖炉の前のソファーに座ってテレビのニュースを見ている。

いつも見ている番組とは異なる地元の番組が放送されており、

地元情報を中心に穏やかな毎日のニュースが流れている。

整理の合間に百合が「富士桜高原麦酒クラフトビール」を

テーブルに置いてくれている。

ほど良く冷えた瓶の栓を抜くと『シュッ、ポン』と心地良い音がした。

冷えたコップに注ぐと小麦色の液体と真っ白な泡の二層が出来ていく。

とりあえず液体7、泡3の割合の1杯目ができた。

 

ちょうどその時に百合が居間に顔を出した。

「翔さん、荷物の整理は終わったわ」

「お疲れ様。少し休もうよ。今、美味しいビールが出来たよ」

「わかったわ。少し休むわ。ふう、暑いわ」

百合は翔の隣に座った。

翔は急いで2杯目を慎重に作った。

「綺麗なビールね」

百合が嬉しそうに手に持ってコップの壁面を立ち上る泡を見つめている。

「乾杯」

「乾杯」

二人は一緒に飲んだ。

『ゴクッ』

とても美味しかった。

百合の最高の笑顔が翔へ向けられた。

このビールは、女性でも飲みやすいフルーティーな香りと上品な味わいドイツ・バイエルン地方で愛飲されているビールを元に作られたもので、小麦麦芽と上面酵母による濁りとフルーティーな香り、上品な味が特徴で、あまりアルコールに強くない百合にもそれほど多くは飲まない翔にも最適だった。

(つづく)

44.ねぶた祭りへ3-青森観光2-

三内丸山遺跡」を後にして「棟方志功記念館」へ向かう。

近隣のパーキングに車を停めて記念館へと入って行った。

 

棟方志功氏は、『おれは日本のゴッホになる』と言って有名になった、

板画家で20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人とされている。

青森県出身で1903年明治36年)に刀鍛冶職人の三男として生まれ、1975年(昭和50年)に亡くなった。

幼少の頃、囲炉裏の煤で眼を患い極度の近視となった。そのため眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫ったらしい。

第二次世界大戦中、富山県疎開したおり浄土真宗にふれた事が大きく作品へ影響しており、その心情が「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」「御二河白道之柵」「我建超世願」「必至無上道」など仏を題材にした作品を生み出した。

自らの身の小ささ、無力さを自覚して仏への帰依する心を作品にしている。

青森県下の学校では版画の授業が多く、今でも棟方志功氏を偲んでいるらしい。

版画作品には彼の魂がこもっているかのように、炎が燃え上がるような荒々しいタッチの中にも、映し出される仏の優しい眼差しや指先が特徴的だった。 

この記念館は校倉造を模した建物で、池泉回遊式の閑静な日本庭園と調和の取れた形となっている。代表作「釈迦十大弟子」等の板画を展示する他、倭画、油画、書など多数の展示があって、特に初期の代表的作品の殆どを収蔵しているのが特徴と説明されている。ただ展示されている作品数としてはそれほど多いものではなく、以外と少ない印象が残ったが、作品を一点一点じっくり見てほしいという作家自身の意向が反映されていた。

 

そろそろ青森国際ホテルのチェックイン時間に近いため、

車をレンタカー会社へ返してからホテルへ向かった。

今回はダブルのツイン1部屋にデラックスシングル1室の予約を取っている。

美波にも今日はゆっくりと眠れるようにと一人部屋を用意した。

まだ明るいし「祭りの開始の合図」がある19時10分まで時間があったので

早めにホテル内の中華レストランで夕食をとった。

せっかくなのでみんなでシェアできるように

カニとエビの蒸し餃子」「上海蟹小籠包」「大エビのチリソース」「麻婆豆腐」

「卵炒飯」「五目そば」「鮑と貝柱の炒め物」を頼んで、丸テーブルに並べてシェアした。

海老のプリプリ感、上海蟹の甘さ、鮑と貝柱の旨味、舌を刺激する辛味と甘さで

五感を刺激する

デザートは「杏仁豆腐」「リンゴシャーベット」で締めた。

(つづく)

92.特訓1(浅間別荘編1)

このたび事件で偶然とはいえ、

翔は初めて意識して『跳ぶ』ことができて驚き半分、嬉しさ半分だった。

今までは絶体絶命の時にしか跳べず、その場所も百合の近くだった。

しかし今回は思った場所をイメージして跳ぶことができた。

これをいつでも使えるようになれば、今まで以上に戦いは楽になると考えたのだった。

テレポーテーションの発現した状況を百合にも詳しく話したが、

相変わらず心配そうな顔をしている。

 

二人で相談した結果、百合が必ず一緒にいることが条件で

現在依頼されている案件を全て終わらせて、新規案件は受けない事にして

しばらく事務所を閉めて、富士五湖にある舘林家の別荘で特訓することとした。

アスカは事務所で待機させることとした。

何かあればバトルカーで駆けつけてくれる事になっている。

早速別荘の管理人に連絡し、生活のためのガス・水道・電気などの準備を依頼した。

食器や水や基本調味料は常備されているので買うものは食材だけでよかった。

タンデムでバトルバイクに乗って東名高速を飛ばす。

サイドカーには百合が準備した服や下着など必要なものを詰め込んでいる。

 

真っ青な空と流れる冷たい風が気持ちいい。

目の前に雄大で美しい白富士山が横たわっている。

しっかりと抱きついてくる百合の柔らかい胸が当たる背中が幸せだった。

ふと3年前の婚約旅行のことを思い出した。(この物語は外伝でさせて頂きます)

その時よりも可愛くしっかり者の百合に相変わらず翔は惚れ込んでいる。

御殿場ICを降りて、東富士五湖道路へ向かう。

富士吉田ICを降りて河口湖東岸を走ると河口浅間神社が見えてくる。

ここまで来たらもう目の前なので街のスーパーマーケットに向かう。

 

百合は今回も前回と同様に食材の吟味に時間を掛けている。

米には富士吉田市特別栽培米『ミルキークイーン』

牛肉は富士山の麓で育てたジューシーな『富士山麓牛』

豚肉は脂身の甘さが赤身に溶け込んだ「山梨レッドポーク」

鶏肉は自然の中で約120日間、放し飼いにより歯ごたえのある美味しさの「甲州地鶏」

その他、旬の「シャインマスカット」「桃」などの果物や

多くの地元で作られた有機栽培の野菜を買い込んだ。

日本酒は「七賢スパークリング」と「甲斐の開運」、

ワインは『さくらんのワイン」を購入した。

地ビールはすぐに飲めるように冷えた「富士桜高原麦酒 クラフトビール」をたんまりと買った。

(つづく)

43.ねぶた祭りへ2-青森観光1-

ナビに「三内丸山遺跡」と入力して出発する。

青森駅から大体15分くらいの場所にある。

青森駅から浪館通りを南西に進み、青森県総合運動公園の北側を道なりに進み、

県立美術館建設予定地を過ぎると遺跡が見えてくる。

三内丸山遺跡】は、昨年より特別史跡として指定された遺跡で、

現在より約5500年前~4000年前に営まれた縄文時代の集落跡である。

発掘調査では竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかるようになった遺跡だった。

膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しており、当時栽培されていたヒョウタン、ゴボウ、マメなどの植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えたとネットでは説明されている。

 

「縄文時遊館」で子供達のトイレを済ませて早速館内を回る。

「さんまるミュージアム」では、遺跡から出土した重要文化財約500点を含む総数約1700点の遺物を展示されている。

入口のタイムトンネルを抜けると左手に「縄文のこころ」コーナーがあったり、重要文化財の大型板状土偶をはじめ、「ヒスイ製大珠」「クリの大型木柱」などが展示されている。

右手の「テーマ展示-縄文人のくらしをひもとく-」コーナーでは、人形などを用いて、出土品から考えられる縄文人の生活の各場面をわかりやすく展示しており、子供達も人形を見てはマンマとか話しかけており、当時の住居内の生活を想像でき非常に興味深い展示内容だった。

 

時遊トンネルを抜けて遺跡への道を歩く。

最初に目に入るのは高さ20メートルほどの

「大型掘立柱建築跡(おおがたほったてばしらたてものあと)」

6本柱で長方形の大型高床建物で柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、建てられている木柱は直径約1メートルのクリの木だった。これらを見ると緑が深く木の生い茂る日本ならではの古代巨木文明の証と感じた。

 

そこから奥へ視線を送ると、家族用住居の「竪穴住居跡」、倉庫と思われる「掘立柱建物」、そして何より目を引いたのは「大型竪穴住居跡」だった。

中は何十人いや100人以上が集まることができる規模のものだった。

当時栗などを栽培しながら、海や山で魚や獣を捕まえていたようだが、これほどの人間は長い間生活できたほど、当時は豊かな自然であったことに慎一は驚きを感じた。しかし、食べ物の少ない冬にこの雪深い中で過ごす彼らの生活は相当にひもじく寒かったであろうことは想像できた。

また別の場所には、お墓のようなものもあり、亡くなった人を送り出す、現在と変わらない光景が人形で再現されている。

それは現在の我々と同じで人と人とが肩を寄せ合って、助け合って生きた時代だった。

一巡してから縄文時遊館内のレストランで「あおもり名物貝焼き味噌定食」「縄文美人蕎麦」「温かつくねうどん」「三内丸山縄文古代飯おにぎり」を頼んだ。

双子母娘はやはり「縄文美人蕎麦」を頬張っている。

デザートは縄文人が味わった素材の「そふと栗夢(クリーム)」と「津軽の太陽をいっぱい浴びたリンゴジュース」にした。

(つづく)

91.遺族の恨みは晴れるのか17

翔は横たわっている『ネコ男』の元へ急いだ。

機械部分が完全に壊されたわけではないため、

人間部分と獣人部分があり暴走しかけている。

身体はネコではなく『タテガミのある獅子』の特徴を有している。

鋭い牙のある口が苦しげに開かれ、呼吸が荒くなっている。

翔は、「獣人化減弱薬」を注入し獣人化の暴走を防いだ。

しばらくすると呼吸が落ち着いてきた。

横たわった男の顔は、普通のよくある日本人のものだった。

 

「ありがとう。助かりました」

「日本人のお前が助かって、うれしい、良かった」

「お名前は?」

「名前はない。『ネコ』とだけ言われている」

「ネコではなくライオンと思うのですが」

「そうなのか」

『ネコ男』も警察に事情聴取をされて、とりあえず翔が身元引受人となった。

 

事務所に『ネコ男』を連れて行き、怪我の手当てをした。

アスカが作った夕食を二人で食べた。                                                                       

『ネコ男』は、初めての日本料理に感激し、日本酒を飲んでは眼を見張った。

翔は、『ネコ男』の身の上話を聞いた。

 

元々彼は日本生まれの日本人だが、生活に困った母親にアジアの犯罪組織へ売られた無戸籍者で、幼少時より殺人者として育てられた。成人後、機械化された時に、記憶は消去されたにも関わらず日本国内にて淡い記憶が蘇り、組織から逃亡を図るもその罰で重症を負わされ監禁されていた。

 

ちょうど目黒研究所の京一郎から、『ネコ男』を連れてくるように連絡があった。

京一郎が元の人間の身体に戻そうとするが機械部分を外す事が出来ず、徐々に獣人化薬の影響を中和させていったため鍛えられた身体機能そのものは元には戻らず、超人的な体力と技術を持つ人間となった。

仕事に関しては、本人の希望もあり研究所警備職員『犬神獅子男(新しい名前)』として働き始めることとなった。

 

この国際犯罪集団の逮捕劇も日本中を騒然とさせた事件となった。

日本中で「死刑制度」について真剣に論議が交わされるようになったが、

今なお結論に至らない意見ばかりで、このような犯罪が起こる土壌はなかなか無くならなかった。

(つづく)