はっちゃんZのブログ小説

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56.新宿探偵事務所スタート2「初依頼」

『ピンポーン』と事務所のインターフォンが鳴った。

二人は飛び上がって一瞬固まった。

やがて気を取り直して、百合がドアへ向かう。

なんと桐生本家の華絵婆さんが顔を出した。

「おや?もう仕事を始めたのかね?」

「もう婆ちゃん、急に顔を出したから驚いたよ」

「お前の開業日に顔を出さないはずは無いだろうに」

「そんなことないよ。別にまだ開業してなかったつもりだったから」

「これは爺様からの餞別だって、当座の資金として大切に使いなさい」

「こんなに?ありがとう、遠慮なく貰うね。大切に使うよ」

「今日は一部だから、後はお前の口座に振り込んでおくからね」

「うん、いいの?」

「今日はお前の社会人のお祝いだから。

 でもこの資金だけです。 後はお前が何とかしなさい」

「はい、わかりました」

「じゃあ、私はもう帰るから」

「お婆様、早いのですね」

「百合さん、今日は少し立て込んでいましてね、また桐生へ翔と遊びに来なさい」

「はい、ありがとうございます。また教えてくださいね」

「私でよろしければいいですよ。でも百合さんは最初からお上手でしたよ」

「そう言っていただけると嬉しいです。お婆様もお気をつけて」

「はい、翔、またね。今度はゆっくりと出来る時にくるから」

「ああ、わかった。婆ちゃん気をつけてね。爺様にもお礼を言っておいて下さい」

「ああ、仕事が落ち着いたら顔を出して、お前が直接言った方がいいと思うよ」

「そうだね、わかった、そうするよ。下まで送るよ」

「別にいいのに、じゃあお願いね」

翔はビルの外まで荷物を持って着いていき深々と礼をして婆さんを見送った。

百合が頼もしそうに翔を見つめている。

 

来客も一段落したのでゆっくりとしていると早速クライアントが来た。

ミンクの毛皮のコートを着た女性だった。

【依頼内容】

依頼人氏名:田中 怜子様。

依頼人状況:主婦

種類:屋敷内芝生の雑草刈り、害虫駆除。

経過:出入りの植木屋が体調不良で休職し芝生の雑草が目立ち始めた。

   明日、来客者があるので至急刈取りをして頂きたい。

   機械は家にあるので手ぶらできてくれればいい。

金額:作業料時給5000円、出張費5000円

 

翔は、急いでクライアントの屋敷までバイクで移動した。

都内にありながら信じられないくらい広い屋敷で長い塀がずっと続いている。

この屋敷の芝生面積は思ったより広く、

屋敷周辺のクモの巣などの駆除を行ったので終わったのは3時間後だった。

そして夕方になったため、

『ついでに大きな犬の散歩もお願い』と言われて出発。

犬はドーベルマンが2頭、ユキオとクルオだった。

ただ2頭共に運動不足なので、近くの公園で翔が目一杯走って散歩させた。

2頭とも最初は運動不足でハアハア言っていたが、

やがて走り慣れてくると翔よりも早くなった。

2頭とも久しぶりの本格的な散歩で大はしゃぎの様子で

散歩が終わって帰ろうとすると寂しがって翔のそばから離れなかった。

 

クライアントから

「とても丁寧な仕事で感心しました。今後もお願いしたいと考えています。

これからあなたの都合の良い時でいいから、週1回でいいからお願いしたい」

と継続的な契約を依頼された。

雑草刈り、クモの巣取り、2頭の散歩で月8万円と言われて喜んで契約した。

その後、独立して寄り付かない子供の代わりにずっとクライアントの話し相手となり

信頼関係を築いていき、1年後に契約金は月10万円へ変わった。

そして、このクライアントの知り合いにも紹介されて順調に依頼が増えて行った。

(つづく)

17.お宮参りと育児への参加

8月末にお宮参りのお祓いを北海道神宮へ予約した。

雄樹と夏姫は良い子でお祓いの間、静かにずっと眠っている。

ちょうど最近は、昼夜逆転しているために午前中は睡眠の時間帯だった。

写真屋でレンタル衣装を借りて雄樹と夏姫をおめかしさせて、

日下と後藤の両親へ写真を送る準備をした。

美波は二人の間でお姉さんとして綺麗に化粧して納まっている。

 

札幌の夏は短い。

9月に入ると瞬く間に朝夕の風が涼しくなる。

日中は暑い日もあるが、湿気がないため半袖では寒くなる時があるくらいだ。

慎一は最近、帰宅後交代で雄樹と夏姫へ粉ミルクを与えている。

母乳が良く出るといっても双子なのでさすがに足りなくなる心配と

一日中起きている妻の体調への不安もあり、

何種類か買って試してみて子供たちが飲んだ粉ミルクに決めた。

この粉ミルクは、赤ちゃんに必要な母乳成分のラクトアドヘリン、ラクトフェリンDHAオリゴ糖ヌクレオチド、β―カロチンなどが含まれていると記載されている。

 

妻は『小さく産んで大きく育てるのよ』と活き活きしている。

ふっくらしていた顔も早くも元に戻りつつある。

生まれた時はあんなに小さかった子供たちもどんどん大きくなっている。

まだ首もすわっていないわが子を抱いてミルクをあげていると

まだ抱き慣れていないせいだろうが、結構腕に力がいるので慎一は驚いている。

その間に妻を横にさせて休ませている。

たまに晩ご飯も慎一が作るようになった。

『美味しい、この子達も喜ぶわ』と笑っている。

 

聞いた話だが、食べた物で母乳の味は変わるらしい。

ならばと『さっぱり水炊き』を食べて、

翌日に『豚の味噌炊き』をするパターンとか、

北海道発祥の『スープカレー』を作った。

スープカレー』のルーは市販されているため

後はトッピングを工夫するだけだった。

大ぶり野菜(ニンジン、ジャガイモ、ブロッコリー、カボチャ、大根)をベースに

鶏肉の煮込んだ定番物から、

軽く炒め甘みを引き出したキャベツの上に

その時にある食材(チャーシュー、鶏中手羽の甘辛煮、豚の薄バラ肉の甘辛炒め)や

スライスしたステーキ肉などをトッピングとして追加した。

野菜の中でも煮込んだ厚切り大根は静香には好評だった。

 

「ねえ、あなた、いつもありがとう、

 今日、病院に行ったらお医者様がいつものようにしていいって」

「えっ?そうなん?本当にいいの?」

「大丈夫、でも子供たちがすぐ起きるから、あなただけでいいわ」

「そうか、少し残念やけど、子供たちが良く眠るようになったら埋め合わせるね」

「私の事は気にしなくていいわ。母乳期間はそうはならないから」

「そう?静香から母乳の甘い香りがする」

慎一は『胸は赤ちゃん用』と背中から優しく口づけをしていったが、

あまりに久しぶりだったのでいつもの余裕はなかった。

「ふふ、あなたが満足してくれて良かった」

「うん、おやすみ」

(つづく)

55.新宿探偵事務所スタート1

翔は大学を無事卒業して、新宿のビルの事務所に入った。

すでに室内には中古だが大きく綺麗な机やソファなどが揃えられている。

1階の葉山不動産に聞くと

『前の業者が残していったものだから使って貰っていい』との事だった。

翔はアルバイトで貯めた資金で固定電話を引き、

窓の外側に小さな看板「新宿探偵事務所(浮気調査不可)」を付けた。

そして開業届けを出し、お客様用のお茶セットや文房具など色々と揃えて開業した。

奥の部屋には生活兼修行部屋がある。

玄関のプレートには『新宿探偵事務所』と彫り込まれている。

 

開業の日に都倉警部がお祝いに胡蝶蘭を持って顔を出した。

百合はまだ春休みなので朝から生け花を飾っている。

お客さんがくればコーヒーを淹れて警部へ出している。

「翔、おめでとう。これはいい事務所だ。驚いた」

「ええ、館林さんのお陰です」

「いえ、翔さんが私の祖父に気に入られたからですよ」

「本当はお前を警察に欲しかったけど仕方ない。

 でも警察とは無関係じゃない仕事だから何かと俺に連絡してくれよな。

 俺もお前に協力はしたいし、お前の腕を埋もれさせるのは惜しいから」

「はい、まだお客さんもいないです」

「しかし、お前じゃあ、きっと儲からないだろうなあ。百合ちゃんがかわいそうだ」

「都倉警部、いいんです。翔さんはお金で動く人じゃないからいいんです」

「そうだな、まあがんばれよ、でも約束してくれよ。

 何か危険なこと、犯罪の匂いがあれば必ず俺に連絡をくれ。協力できるから」

「はい、わかりました」

「じゃあ帰る。それはそうと、俺の知り合いの金持ちのお婆さんとかに

 お前のことを宣伝しているから電話があるかもしれんぞ。まあがんばれ」

「はい、ありがとうございます」

 

「ねえ、翔さん、おめでとう。今日から所長ね」

「そうだな、先ずは家賃を儲けることから始まるけどね」

「それはゆっくりと考えればいいんじゃない?

 ねえ、たまに私もここで晩ご飯とか作って一緒に食べたいの。いいでしょ?」

「うん、大歓迎。百合のご飯はとっても美味しいから元気が出る」

「ふふふ、やっと翔さんから合格点をいただけました」

「いや、昔から美味しかったよ」

「桐生のお婆様にコツを習ってからの方が、

 美味しくなったことがわかりました。

 葉山の実家でもそのように言われています。

 それを先に教えられなかったとお婆様も悔しがっておりました」

「そうかなあ、俺は葉山の料理も大好きだけどなあ。それぞれと思うけど」

「ありがとうございます。きっとお婆様も喜びます」

「なんせ俺は百合が一番なのさ」

「ありがとう、翔さん・・・」

ソファに座る翔の隣へ百合が座り、顔を翔の方へ向けて目をつぶった。

翔はドキドキしながら、そっとその細い肩を抱きしめて口づけをした。

『ポッ』と頬を染めた百合の表情がとても可愛かった。

(つづく)

16.子供たちのお披露目

神戸から慎一の両親と妹夫婦と子供、仙台から静香の母親と兄夫婦が札幌へ来た。

全員札幌は初めてで夏場にも関わらずその湿気の無い気候に驚いている。

神戸組5人は日帰り、仙台組は3人なので一泊を予定している。

せっかくなので全国でも有名な円山『すし善 本店」の別棟の離れ座敷を用意した。

 

料理は『懐石 善』

前菜・吸物・刺身・鮑ステーキ・煮物・小鉢・寿司8個・味噌椀・デザートの9品。

北海道を始めとして全国から旬の食材を取り寄せての膳で全員大喜びだった。

特に以下は特筆すべきものだった。

『刺身』

 今朝取れスルメイカ、大間産のマグロ(トロ、赤身)、ボタンエビ、塩水ウニ、

 ホタテ、ホッキガイの盛り合わせは、それぞれが主張しあい美味しかった。

『北海シマエビとアスパラガスの和え物』

 旬の北海シマエビと旬のアスパラガスの甘みをより強調した肝の和えもの。

『蒸しあわび』

 九州から取り寄せた質の良い鮑をふっくらと蒸しあげており、

 その旨みは噛むほどに口中に広がってくる。

『握り寿司』

 食材毎に吟味された職人の仕事が生きており、さすが『すし膳』と言える味だった。

穴子にぎり』

 築地から取り寄せた穴子を使っており、ふわっと柔らかな上品な食感が最高だった。

 江戸前の寿司と同じで大変美味しかった。

夕張メロン

 しつこくない甘みと口の中をさっぱりさせる最後のデザートには最高だった。

美波はこれまで何度も回転すしを食べて十分に美味しかったので満足していたが、

『これを食べてしまっては回転してる寿司はもう食べられない』と悲しがっている。

 

雄樹と夏姫は、母乳をよく飲みよく寝てすくすくと育っている。

顔つきも雄樹は何となく慎一似、夏姫は静香似で見ていて飽きない。

静香、美波、夏姫と並ぶとみんな良く似ていて可愛かった。

赤ちゃんたちは空中の何かを見ているのかじっと見つめて笑っている。

妹の幸恵が『男の子と女の子を一気に産むなんて先にやられちゃった』

と悔しがっている。

やがて夕方となり名残惜しげに神戸組は帰って行った。

仙台組は3人なので一泊して翌日ゆっくりと帰るそうで家へ戻ってきた。

 

静香の母は、娘の様子や孫たちを見てはずっと嬉し涙を流している。

慎一と静香夫婦の結婚生活に安心しているのが良く分かった。

結婚式の時、母の少し不安そうな態度が静香は気がかりだったが、

今はまったくそんな風には見えなかったので安心した。

美波は久しぶりのお婆ちゃんと一緒なのでずっと隣にいて、

大学のことや小樽の生活の事を色々と話している。

静香の兄も夫とお酒を飲んで仕事の事など色々と話している。

静香は雄樹と夏姫に順番に母乳を与えながらみんなを見つめている。

ここに幸せの時間が詰まっていると感じているかのように・・・

(つづく)

54.翔、初めて葉山館林家へ 4

「ほう、その顔つき、やっと本気の力を出しそうだな。さぁ、きなさい」

「はい」

そこからは現在の翔が持つ最高のスピードと力で戦ったが、

とうとう爺さんには触ることもできなかった。

そして最後には又もや壁板へ叩きつけられた。

「よし、今日はここまで、翔君、なかなか鍛えてはいるがまだまだだ。

 もっともっと精進しなさい」

「はい、ありがとうございました」

「翔君、ところで百合との付き合いだが・・・」

『ゴクッ』

「まあ百合との付き合いは許そう。

 その代わりどんなことがあっても百合を守りなさい」

「はい、そのつもりです」

「君はなかなか筋がいい、我が一族に来てほしいくらいだが仕方ない。

 今後は百合とちょくちょく顔を出して、わしの相手をしなさい」

「はい、わかりました」

 

爺さんと二人、道場で正座をして向かい合った。

「聞いておきたいことがある、今後の事じゃ、将来はどんな仕事に就きたい?」

「はい、今それを考えていまして、弱い人困っている人を助ける仕事を考えています」

「警察ではなさそうな感じじゃな?例えば私立探偵とか?」

「あっ、そういう仕事ってテレビの中だけと思っていました」

「いや、普通にあるぞ。ただ浮気調査とかばかりだがな」

「浮気調査とかは・・・うーん。嫌です」

「そういうと思った。それなら『何でも屋』のような感じでやればいいだろう。

 浮気調査が嫌ならば断ればいい。

 実は新宿にある持ちビルの二階の部屋が空いている。そこを使ってみないか?

 事務所の奥にも広い部屋があるので寝泊り兼トレーニングルームとすればいい」

「はい、ですがそんな良い場所の部屋代はたぶん払えません」

「そうだな、月1万円でどうだ?

 1階の不動産屋が管理しているからお金が出来次第、支払ってくれればいい。

 実は変な人間には貸せないので困っていたところだった」

「1万円?すごく安いですね。助かります。これから資格とか取ります」

「探偵は普通自動車免許を持っていれば大丈夫。

 後は開業申請を出すだけで良いはずじゃ」

「そんな簡単なものなのですか・・・驚きました」

「自分の食い扶持くらいは稼ぐのじゃぞ、これで君の仕事は決まった。

 憂いがなくなれば後は鍛えるのみじゃ、がんばるのじゃ」

「はい、ありがとうございます」

「これからは君の正義を全うしなさい」

これで翔の大学卒業後の仕事は決まった。

(つづく)

15.誕生

金曜日の夜にとうとう記憶にある痛みが襲ってきた。

夫へすぐに声を掛けて、

入院グッズの詰めたカバンと一緒に病院へ連れて行ってもらった。

生まれるにはまだ時間がかかることを伝えて、外で待ってもらった。

夫は美波へ連絡しているみたいだったが、

電車時間も終わって明日の朝に来ることになったようだ。

 

だんだん痛みと強張りの感覚が短くなってくる。

呼吸を整えて、その時を待った。

そこからあの時の痛みと苦しみが始まった。

二回目なので不安もなく思ったより早く軽い出産だった。

まず一人目の声が響き渡った。

しばらくすると再度あの痛みと苦しみが始まった。

そして二人目の声が響き渡った時に静香から安堵の涙が出た。

二人の赤ちゃんを抱きしめて、交互にその可愛い頬へ口づけをした。

 

部屋へ運ばれていくと緊張している夫が入ってきた。

双子を一人ずつ抱きしめて見せると夫が笑っている。

夫へ抱きしめるようにすすめる。

「静香、ありがとう。よくがんばったな。おお、よしよし」

『こんなにちっちゃい、壊れそうで怖いなあ』恐る恐る交互に抱っこしている。

静香は大仕事を終えてほっとして家族を見つめていた。

 

当日は新生児ルームで眠っている雄樹と夏姫に母乳を飲ませに行っている。

翌日急いで札幌へ戻った美波は、二人を大喜びで抱っこしている。

二人は静香の隣に眠っている。

夫はずっとマスクをつけて見つめている。

嫌がる夫を説得して月曜日からは仕事へ行かせた。

病気じゃないから休ませる必要はなかったからだった。

『もう少しすれば家で一緒に暮らすから』と安心させた。

夫は後ろ髪を引かれるように仕事へ行った。

 

1週間後、医師より母体も子供たちも大丈夫という診断が出て、

夫へ連絡し病院に迎えに来てもらった。

家に帰ってからずっと夫は子供二人のそばから離れなかった。

来週土曜日には神戸から夫の両親と妹夫婦、仙台から母親と兄夫婦がくるらしい。

(つづく)

53.翔、初めて葉山館林家へ 3

翔は洋館の一角にある道場へ連れて行かれた。

壁を挟んで隣は女道場となっており、百合とお婆さんが入るようだ。

女道場からは百合の気合いか声らしきものが漏れてくる。

『これはきっとあんなことをしたから二人ともお仕置きされるんだ』と翔は覚悟した。

「翔君、どうした?

 君の格闘術の腕前を見ておきたい。早く身体をほぐしなさい」

「???」

「君と百合の付き合いを許すか許さないかは、君の腕前を見てからと考えている」

「は、はい、でもだいぶ高齢ですし大丈夫ですか?」

「ははは、心配するな。わしの身体に触れることができれば相当の腕前ということだ」

「??? 触れる事?」

「そうだ、はっきり言って、君より私は強いということだ。全力出して結構だよ」

 

翔は半信半疑ながら柔軟体操を始め身体を暖めた。

本来桐生派の格闘術は柔軟体操を必要としないのですぐにでも可能だが、

怪我をさせてはいけないと思い悩みながら時間を稼いだが、

もう爺さんが正座して待っているのでこれ以上の時間稼ぎは出来なかった。

執事の藤原さんがじっと待っている。

 

戸惑いながら試合が始まった。

翔は先ずは軽くジャブから入ったが、早いはずの拳が全て当たらない。

次は蹴りも使い、先ずはローキックから入った。

「いつまで遊んでおるのか?ほれ」

ローキックが届くより先に

流れるような動きで懐へ入ってきて

腹部水月へ軽く掌底が入れられた。

『ズーン』と身体の芯へ響く打撃で脚が止まった。

「これは!!!・・・???」

「驚いたか?陳家太極拳じゃ、翔君は知っておるか?」

「は、はい、名前だけは」

 

陳家太極拳は中国河南省温県陳家溝在住の陳氏一族を中心に伝承されている中国武術で、現在分派した全ての太極拳の源流である。その武術の理想は剛柔相済、快慢兼備な動きであり、太極拳に特徴的な柔軟さや緩やかな動作だけではなく、跳躍動作や激しく剛猛な動作をも含んでいる。発勁太極拳の得意とする暗勁だけではなく、明勁や纏絲勁によって全身の勁力を統一することが他派の太極拳に比べて異なる点だった。

 

「どうした、この前、プロレスラー崩れに勝ったのはまぐれか?」

「いえ、そんなことは」

「どうしても年寄りと思って気になるのなら、先ずはわしから行こう」

爺さんはそう言うやいなや、

こちらの呼吸を読んでいるかのように

早くも遅くもない速度ですっと近寄ってきた。

翔は何の準備も出来ないまま、目の前に爺さんの顔が寄せられ避けようとした。

今度は足元で『ドーン』と大きな音が鳴った瞬間、全身を壁板へ吹き飛ばされた。

翔は桐生本家の爺さんの顔を浮かべた。

『この爺さんは桐生の爺さんと変わらないくらい危険な生物である』と認識した。

翔は一瞬にうちに桐生流呼吸法で戦闘態勢を整え構えた。

(つづく)

14.雪のイベント

2月の北海道は、全エリアで雪の行事が盛り沢山だ。

札幌市では『さっぽろ雪祭り』が2月上旬から中旬にかけて開催される。

その同じ時期に小樽市では『小樽雪あかりの路』が開催される。

その他近隣では、『支笏湖氷爆祭』『層雲峡氷爆祭』『旭川冬まつり』などである。

 

先ず美波は地元の『小樽雪あかりの路』へと足を運んだ。

このイベントは、平成11年2月上旬の10日間、

小樽の古い街並みをキャンドルの灯火が優しく照らす幻想的なイベントだった。

夕暮れ時から小樽市内の主な会場(運河会場、手宮線会場)で開催される。

照らされるキャンドルの種類は、漁具をモチーフにした浮き玉形のものやスノーキャンドル、様々なオブジェなどでボランティアの手作業により作成され飾られている。

小樽の街のすべての場所において、このイベントへ市民が参加しているため

手作りの温かさが伝わってくるイベントで心が落ち着いてくるのだった。

 

それらと趣が異なる会場としては天狗山会場がある。

ここは小樽市の夜景を見渡せる絶好の会場で

JR小樽駅から臨時バスが用意されている。

その会場からは美しい夜景を背景に、

色とりどりの幻想的なイルミネーションが

まるで別世界のように浮かび上がってきている。

美波は何日も掛けて友達と一緒に全会場をゆっくりと回り、

各会場の趣向を凝らせたその幻想的な光景に瞳を輝かせた。

 

『小樽雪あかりの路』の次は『さっぽろ雪まつり』だった。

土曜日の夜は大きなイベントがあると聞いて、

土曜日昼過ぎに小樽市からJRに乗って札幌駅まで行き、まず大通公園に向かった。

多くの観光客が公園の凍った雪道の上を滑らないようにヨチヨチと歩いている。

雪の経験の無い外国人と思われる人達はやはり滑って転んで笑っている。

美波も転んで間違われないように注意して歩いた。

 

道端には屋台も出ており、

美波は『峠の揚げイモ』

大きなカリッとしたホットケーキの生地で包まれたジャガイモが串に刺さっている。

芳賀さんは『じゃがバター』

蒸かしたじゃがいもからホカホカの湯気があがり黄色いバターがトロリと溶けている。

他の友人はトウモロコシを頼んでいる。

ほんの一粒でもトウモロコシの風味と甘味が主張している。

 

『止まらないで下さい。逆回りはしないでください』とアナウンスされている。

見上げるような大きな雪像から

市民が作ったと思われる2メートルくらいの小さなものまで

長い公園にところ狭しと飾られている。

昼間なのでゆっくりと各雪像を見ることができた。

降り積もる雪で隠れた雪像を直している人もおり、とても冷たそうだったが

彼らの表情はどれも楽しそうで心から祭りを楽しんでいることがわかった。

 

会場は大通公園だけでなく、すすきの会場などがあるが、大通会場が有名である。

さっぽろ雪まつり』は、1950年に初めて開催され、最初は札幌市内の中高校生が美術科教諭の指導の下に6基の雪像と元国鉄管理局が祭りに合わせて、札幌駅前に雪像を作ったものだったらしい。

雪像の作成イベントは、1954年(第5回)から市民制作の像が加わり、

次に陸上自衛隊、商社、市の出張所が加わり、

現在のように様々な参加者による多数の像が並ぶスタイルが定着した。

この祭りが有名になったのは1972年の札幌オリンピックの時で、世界的に雪まつりが紹介され、これ以降海外からの観光客も目立つようになり、その後国際親善を目的として海外都市の派遣による「国際雪像コンクール」も始まった。

 

『すすきの会場』では「すすきの氷の祭典」と銘打って、

「氷を楽しむ」をテーマに、幻想的な氷像が並んでおり、

氷像に触れたり、乗ったりできて楽しかった。

イルミネーションロードと言う撮影スポットも企画されておりついつい撮影している。

拍手が起こったので見に行くと「氷の女王の撮影会」が開催されており、綺麗な女性達が立って笑顔を振りまいている。

 

夕方になると「ホワイトイルミネーション」が大通会場を照らす。

イルミネーションに照らされた美しい雪像

芸能人やお笑い芸人などのイベントが開催されて

寒い中であっても時間の過ぎるのが早かった。

芳賀さんから聞いたところによると、

この祭りは陸上自衛隊の協力が不可欠で、

札幌近隣の不純物のない純白な雪の搬入や雪まつり雪像製作に協力しているそうだ。

この会場にあるすべての雪像は、雪まつり閉幕の翌日には重機ですべて解体され、

その後にできる雪山はしばらく公園に残され、一部がソリ遊び用などに再利用されるが、札幌市内の排雪作業が一段落する頃にはなくなるらしい。

あまり遅くなるといけないので夜8時の電車に乗った。皆と来年も来る約束をした。

美波はさっそく母へ『来年は遊びに来るように』と電話をすると

なんと母から札幌への転勤の連絡を貰いとても驚いたが、少し安心した美波だった。

(つづく)

52.翔、初めて葉山館林家へ 2

翔は百合の誘導で葉山館林邸の中に入った。

ピーンと張り詰めた空気が漂っている。

ふと視線を感じて見上げると植木職人が翔をそれとなく見ている。

百合が挨拶するとその職人はぺこりと頭を下げている。

よくよく観察してみると、館林邸は洋館で植木、花壇や池の配置といい、

外部からの侵入を防ぎ、視界を遮る構造になっていることがわかった。

このような構造は桐生本家も同様なので翔には理解できた。

 

百合がこっちこっちと手を振っている。

「桐生さん、いらっしゃい。百合の祖母の悠香です。

 いつも百合に良くして頂いてありがとうございます。

 急なことで驚かれたでしょう?」

「いえ、こちらこそご挨拶が遅れ申し訳ありませんでした。

 いつも館林さんにはお世話になってます」

「爺様が是非会いたいと言いだして、年寄は気が短いのですみません」

「いえいえ、これは桐生家の方からお届けしなさいと言われたものです」

「あらあら、ひもかわうどんと上州牛の味噌漬けですね。

 これはうちの爺様の好物です。ご丁寧にありがとうございます。

 百合、桐生さんをお部屋へご案内しなさい」

「はい、お婆様わかりました。さあ翔さんこちらです」

「は、はい」

百合がそっと耳元へ小声で囁いた。

『翔さん、私はあなたが大好き、だから自信を持って」

 

奥の棟梁の部屋に案内されていく。

磨きこまれた床がにぶい光を放っている。

樫製のドアの前には秘書らしき初老の男性が待っておりドアが開かれた。

中に入ると板間に続き畳のある和室が見え、百合の祖父である隆一郎が待っていた。

翔はカチコチになって正座して両手をついて挨拶をした。

「本日はお招き預かりました桐生 翔と言う者です。何卒よろしくお願い致します」

「桐生君、いや翔君と言おう。そんなに緊張しなくていい。

何も取って食おうと言うわけではないから安心して。よく来てくれたね。

いつも百合を守って頂いてありがとうございます」

「いえいえ、まだまだです。いつも館林さんにお世話になっています」

「お爺様、あまり翔さんをいじめないで下さいね。

緊張しちゃって、いつもの翔さんじゃなくなってるわ」

「そのようだな。しかしあのプロレスラーくずれとの戦いによく勝ったものだ」

「えっ?ご存じだったのですか?」

「おう、百合は大切な姫だから常に見ていますよ」

「常に?」

「危ないことがないようにと言う意味だ。君は信用できるから見張っていないよ」

「はあ、そうですか。お恥ずかしいところをお見せしました。

あの時は私の油断が招いたことで、館林さんを守るために必死でした。

今度はあのような事態にはさせません」

「君の格闘術は突出しているな。相当に昔から鍛えこんできたようだな」

「はい、仔細はお話できませんが幼い頃より修行はしています」

「そうか、しかしそれほどの技量を持っていても

今の社会ではそれを活かすことができなくて残念であろうなあ」

「はい、私自身はただの暴れん坊と変わらないと自覚しています」

「翔さん、そんなことないわよ。

私はあなたの正義感が誰よりも強いことを知っています。

いつも弱い人をたくさん助けてきたじゃない。もっと自信を持ってお願い」

「うん、ありがとう。でも仕事となるとないんだよ」

「でも・・・」

「まあ、翔君、仕事の話はここまでにして、少し道場で男同士の話をしよう」

「お爺様、何をするつもりですか?」

「百合、お前は私と話をしましょう」

「お婆様・・・」

(つづく)

13.ゲレンデ

北海道の雪は、「ユキムシ」がその訪れを知らせ、

遠くに見える高い山が「初冠雪」し、

街中に「初雪」が降り「初積雪」となり春まで「根雪」となる。

12月には背丈以上の雪壁が出来て小樽の街も大学も白く染まる。

テニスサークルがウィンタースポーツサークルへと変わり、

倶知安の『ニセコ合宿』が開始される。

ニセコスキー場の雪質は日本でも珍しいパウダースノーで、

世界中に知られており、ここを訪れる外国人客も多い。

 

美波は初めてのウィンタースポーツを楽しみにアルバイト代を必死に貯めた。

土曜日の朝に倶知安駅で集まり、バスに乗ってスキー場へ向かう。

ゲレンデには外国人も含め多くの人が滑っている。

初心者は新入生の美波や県外出身の女の子くらいのもので

あとのメンバーは我先に颯爽と滑って行く。

美波は友人とスノーボードの初心者スクールに入って練習を始めた。

美波は運動神経がいいので上達は早かった。

簡単に基礎を教えてもらって終了した。

スノーボード人口はまだ少ないのでゲレンデの隅でしか滑れなかった。

しかしターンがなかなかできず、

すぐに転ぶ初心者の美波にはちょうど良かった。

 

そんな最中、ゲレンデの一角で人が集まっている。

サークルメンバーのウェアが見えたので急いで現場へ行くと香山さんが倒れている。

そんな時、前田さんが到着すると彼女を背負ったままストック無しで滑り降りていく。

先輩方の話ではさすがスキーA級の腕前だと感心している。

普段は便利屋で笑わせ屋の前田さんが、その時だけは格好良く見えた美波だった。

 

夕方になりホテルに着くと

足を痛めた香山さんがギブスと松葉杖をして手を振っている。

病院へ行ってレントゲンを撮ると骨にヒビが入っていたらしい。

道理で捻挫の割にはすごく痛がっているはずだった。

サークルメンバーは倶知安駅の前のビジネスホテルへ泊まった。

夕食後、食堂の部屋をサークル貸切で飲み会が始まった。

座も騒がしくなってきた時間を見計らって

食堂から出てホテルのベランダへ出て、

夜のライトアップされたスキー場を見た。

大きな雪が舞い降りてきてダウンジャケットに降り積もる。

袖部分をよく見ると六本枝の結晶が付いている。

『雪って、本当にあの形になるんだ』

と感心して見いっていると後から声が掛かった。

 

「日下さん、大丈夫?酔ったの?」

「ああ、前田さん、酔ってませんよ。ナイトゲレンデを見ていただけです」

「本当に綺麗だよね。日下さんはスキーじゃなかったの?」

「はい、スノーボードの方が、保管スペース少ないからちょうど良かったので」

「そういえばそうだね」

「今日は大変でしたね。でもすごくスキーうまいですね。驚きました」

「ありがとう、小さい時からよく滑ってるから自然とね。

 テニスではいいところを見せられないけどスキーなら自信があるんだ」

「いえいえ、そんなことないですよ。一緒にプレーしてて安心できます」

「ありがとう、でもこんな風に話すの初めてだね。だいぶ大学には慣れた?」

「はい、お陰様で。でも北海道はいいですね。思った通り」

「雪が大変で不便じゃないの?」

「まあ慣れの問題です。食べ物は美味しいし、

 空気も澄んでてサラッと乾燥しててとっても好きです」

「そうなんだ、僕は北海道しか知らないからわからないけど。

 でもそう言われると嬉しいな。

 僕は小さい時から冬は毎日ずっと雪かきだし、

 夏や秋は家の手伝いばかりの毎日だったから嫌だったけど」

「そうだったんですね。私は前田さん見てたら毎日楽しそうだったから意外でした」

「まあね、色々とあるから、田舎は嫌なんだ」

「まあ、それは田舎出身だからよくわかります」

「そうだったね。じゃあ、寒くなってきたから部屋へ戻ろうか」

「私は、着込んで着ましたからこの綺麗な光景をもう少し見ています」

「じゃあ、気をつけてね」

「はい、ありがとうございます」

 

ニセコ合宿から帰ってほどなくして、

怪我した香山さんの部屋に前田さんが訪れる機会が増えてきた。

付き合っているのがわかったので自然と彼女の部屋へ行くのは遠慮するようになった。

自然とマンションとゼミが同じのもう1人の友達の芳賀さんと

図書館で一緒に勉強したり札幌に行って遊ぶ機会が増えた。

芳賀さんは茨木(イバラキ。間違うと訂正あり)県生まれで、

明るく頭の良い女の子だった。

この人もお嬢様のようだが3姉妹の真ん中で、

非常にしっかり者で美波は色々と相談することも多かった。

(つづく)

51.翔、初めて葉山館林家へ 1

百合が桐生本家へ行ってしばらくして、百合から話があった。

葉山館林の爺様と婆様が『是非に翔君を連れておいで』と呼んでいるとのことだった。

『もしかして大事な姫の百合とキスとかしてるのでこっぴどく叱られるに違いない』

ビクビクしながら百合と一緒にバイクで葉山へ向かった。

百合が翔の背にしっかりとつかまってマイクで色々と話してくれる。

足が長くスタイルの良い百合のライダースーツが眩しかった。

 

葉山の海は青く多くのサーファーが波と戯れている。

まだ春先なので海水浴客はいないが、

夏になると多くの海水浴客でごったがえして静かな葉山が一変するらしい。

百合はこの静かな街で幼少の時から育った。

やがて葉山の小高い丘の上に建つ洋館と研究所らしき建物が目に入った。

近づくにつれて屋敷の大きさが実感できた。

桐生本家はその周り1町全てが一族の土地で守りを固めている。

館林家は研究所を含めて桐生本家と変わらないくらいの広さであった。

その周りも同様に一族で固めているとすると驚くべき広さであり要塞であった。

 

翔は背中にあたる柔らかい物を昨夜そっと触ってしまったことを

今更ながらに思い出して背中から汗が噴き出てきた。

何度もキスするうちにお互いが求め合った結果だが・・・。

百合のお嬢さん度がわかるにつれて

彼女の実家の大きさを想像すればするほど翔は焦ってきた。

しかし世間一般から見れば

翔自身がお坊ちゃまであることまでは理解していなかった。

 

実は館林家の詳しいことは百合にも知らされていない。                                                 

徳川時代の館林一族本家は群馬の前橋館林家であり葉山館林家は分家であった。

将軍家守護の一族として前橋館林家と桐生家は懇意な関係だった。

明治以降、前橋館林家は党首が次々に怪死してゆく事件があり、

葉山館林家が本家として存続していくこととなった。

この館林邸に出入りする者、業者も含めて全員が館林一族で固められており、

一族は警察・公安を初めとして政治、経済の各業界へ広く深く人脈を持ち、

桐生家と共同であらゆる情報を入手している。

現在の館林家頭首は、隆一郎、妻は悠香である。

隆一郎は館林家頭首相伝の抜刀術と組討術を護身術として習得しているが、

若い頃、中国大陸に渡った折に剛柔相済、快慢兼備を理想とした「陳家太極拳」を習得し、日本国内で唯一のマスターでもあり、

悠香合気道の達人で百合の師匠でもある。

百合の父親は葉山館林家次期頭領で、現在米国ニューヨークで研究をしており、

母親は著名なピアニストであり、殆ど日本にはおらず年に数回のみ帰国する。

(つづく)

12.サークル

大学の講義も最初は高校時代の延長なのでそれほど難しくはなかった。

サークルはとても楽しかった。少しずつ友達も増えてきている。

みんな受験から解放されての大学生活なので大いに羽を伸ばしている様子だった。

土日の休みには女の子同士で札幌市へ出掛け、

ウィンドウショッピングや映画やスイーツ探索をした。

北海道はスイーツ王国で

使用される果物や乳酸品が新鮮で種類が多かった。

小樽で食べたルタオのケーキも美味しかったが、

札幌にはいたるところに色々なスイーツの店があった。

特に市電の西4丁目駅の近くにあるフルーツタルト専門店は、

以前冬に来た時に「さくらももいちごのタルト」を食べて以来のファンだった。

旬の色鮮やかでとても美味しいフルーツを敷き詰めたタルトが並べられており

ケーキ1品は500円から1000円くらいまであるが、

ケーキセットで頼めばどんな金額のケーキも700円で食べることができてお得だった。

 

サークルやゼミの女の子同士で出かけるとたまに男性のことが話題に上る。

『ふーん』と言う感じで聞いている。

美波は昔からファザコン気味な性格なので

同世代の男の子に好意以上の気持ちを持ったことはなかった。

昔から友達が男の子の話を出しても聞いてはいるが

自分から話すような気持ちになった存在の男の子はいなかった。

恋心という感じも全く記憶にないのできっとないのだと感じた。

でもそうだからと言って寂しいとは一切感じなかった。

毎日のテニスや勉強、そして女の同士の他愛もない会話が楽しかったからだ。

 

そんな中、サークルの先輩の前田さんのことが出ることもあった。

前田さんはサークルでは幹事役の先輩で明るく場を盛り上げることが上手だった。

サークル部屋に実家で採れた果物をたくさん持ってくる先輩で

実家は隣町の余市にあり、果物農家を営んでいて、そこから通学している。

サークルの女子には結構人気があるようで

知っている人なら誰の頼み事も一切断らないし

最後まできちんと責任を持ってやってくれる優しい人らしい。

 

前田さんは一度ダブルスを組んで試合をして以来、

何かと美波へ話しかけてくる機会が増えてきて好意は持っている。

ただ彼女たちの話を聞いていると前田さんを

『ただの便利屋さん』のような扱いをしている印象を受けた。

友人の1人に仙台から来ている香山さんという女の子がいる。

由緒正しい大きな家のお嬢様らしく、

「結婚相手は親が決めるので、遊ぶのは今しかないから」と笑っているのを聞くと

『ふーん、そんなものなのか』と聞いているだけだった。

(つづく)

50.百合、初めて桐生家へ

爺さんからの話をすると百合は大喜びで

『すぐにでも行きたいけど

 色々と準備があるので3日後にして欲しい』と大慌てだった。

どうやら葉山の御実家へ連絡するつもりのようで今度は翔が緊張し始めた。

もしかしてすごい女の子と付き合い始めたのかも?とドキドキした。

もし結婚することになったらすごくうれしいけど、

自分はいまだ修行の身であり、仕事も決まっていないし結婚など夢また夢だった。

そこを聞かれる可能性があると思うと焦りの感情が湧いてきて、

今度は自分が何だか情けない存在に思えてくるのだった。

 

翔は本家から帰ってから、ずっと将来の職業について考え始めた。

自らの利点は格闘技術で特に秀でていること。

プロ格闘家を目指すことは一族のしきたりからは考えられない。

自分にできることは本当にこれだけだった。

 

そうこうするうちに百合を本家へ連れて行く日がやってきた。

本家の門の前に立つと百合は、

「わあ、葉山の館林と同じ匂いがします。すごく素敵なお屋敷です」

「そう?ただ古いだけの屋敷だけど」

「いえ、私はこの屋敷に何度も来たいと思っています。翔さん、いいでしょ?」

「うん、気に行ってくれたらいいよ。まあ家に入ろうよ」

「いらっしゃい、館林さん」

「お婆様、百合と呼んで下さい。またお婆様にお会いできました。嬉しいです」

「何もない所ですがどうぞ、あれからお変わりありませんでしたか?」

「はい、翔さんにはいつもよくして頂いています」

「それは良かった。どうぞ。主人が待っておりますよ」

「はい、ねえ翔さん、私、変なところないですか?」

「う?うん、いやいつもと変わらず綺麗だよ」

「翔さん、ありがとう、なら良かった」

 

頭領の爺さんがいる部屋へ婆さんが案内していく。

百合は緊張した面持ちでついていく。

「いらっしゃい、いつもうちの翔がお世話になっています」

「初めてお目にかかります。館林百合でございます。

 今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

 これ葉山の実家からです。つまらない物ですがお納めくださいませ」

「おお、これは立派な天然真鯛の一夜干しじゃ、葉山の皆様はお元気ですか?」

「はい、みな元気です」

「おお、それは良かった」

やがて早めだが楽しくにぎやかな夕食が始まり終わった。

 

夕食後、皆がお茶を飲んでいる時に爺さんに部屋へ呼ばれた。

百合は婆さんと色々と話をしている。

「翔、いいお嬢さんだな。お前には勿体ないくらいのお嬢さんだ」

「ありがとう、本当にいい子なんです。

 不思議だけど初めて会った時から初めてじゃない感じがしてる子だった。

 最初は笑う事も知らなかったみたいで戸惑ったけど

 その笑顔を見ているだけで、満足って言う感じです」

「それはよくわかる。あのお嬢さんの笑顔は見る人を幸せにするな。

 しかし、お前も感情が表に出るようにはなったな。昔は笑うこともなかった」

「そうなんですか?うーん、あまり覚えていないのでわかりません」

「まあいい。彼女を大切にするんだぞ」

「はい、わかっています」

(つづく)

11.母の再婚と強がり娘

入学してしばらくすると母から電話があった。

「美波、実はね・・・日下さんとね?うーん、あのね」

「結婚するんでしょ?」

「えっ?なぜわかったの?」

「お母さんを見てたらわかるよ。お母さん、良かったね。今度はおじさん、

 いや、お父さんだった、お父さんとずっと一緒に幸せになってね」

「うん、美波ありがとう、お母さん幸せになるね」

「約束だよ、美波は全然大丈夫だから心配しないでね」

「そう?ならいいけど、いつでも戻ってきていいからね」

「うん、ありがとう、交通費高いから簡単には戻らないよ。

それはそうと、いつ結婚式なの?」

「今度の5月の連休にと考えてるの、神田さんで身内だけで」

「わかった。じゃあその時には帰るね」

「くさ、いや、お父さんがチケットを用意してるから安心して」

「わかった。じゃあ待ってるね。お母さん、本当におめでとう」

「うん、ありがとうね。お前のおかげだね」

「あれっ?知ってた?」

「ええ知ってるわよ、お前が神様になるなんてねえ」

「ははは、きっと神様が私にそうさせたのよ」

「わかったわ。気をつけて帰って来るのよ。それとまだ寒いから気をつけてね」

「はーい、わかりました。もう美波は大人だよ。安心して」

 

電話を切って美波はため息をついた。

誰も知っている人がいないという事は、

全て始めから人間関係を作るということ。

生まれも育ちも違う人間が手探りで最初から関係を築いていくこと。

ただ北海道の人は他県から来た人に優しく、

非常に懐が広いのですぐに友達になれる。

これは田舎全般に言えることかもしれないが

深いところに踏み込んで仲良くなろうとすると、

その人の歴史や考え方がわからないのでそこまでは行けない厚い壁があった。

また女性はおしゃれに非常に敏感で、たまに札幌市に行った時などは、

東京のファッションが入ってくる速さに驚くことも多い。

サークルメンバーがいるのでまだそれほど落ち込まなくて済んでいるが、

やはりずっと一緒に生きてきた母から離れると心細い気持ちがまだ強かった。

(つづく)

49.翔、久々に実家へ帰る 2

「それならば良い。今日お前を呼んだのは他でもない。将来の事じゃ。

 お前はどのような職業に就くつもりだ?あと1年で社会人になるが」

「それを今、考えています。会社に入るのも性に合わないし、

 仮に入っても役には立たないと思うし、

 都倉警部から警察はどうだと言われていますが、

 警部には申し訳ないのですが警察に魅力は感じないのです」

「お前は正義感の強過ぎるところがあるのでそうかもしれんなあ。

 かといって頭領には早すぎて話にならないし」

「話にならない?そうなのですか?」

「お前は今まで何を感じていたかは知らないが、

 今のお前では一族を守れないし

 それ以上に一族の者から頭領として受け入れて貰えないぞ」

「やはりそうなのですね。薄々わかってはいましたが・・・

 お父様が生きていればお父様がなっていたのですよね?」

「いや、たらればを言うつもりはないが、

 仮に生きていても鬼派にはなれなかったと思う。

 格闘技術は同じ年齢を考えるとお前の方が明らかに上だ」

「血筋でもないし、技術だけでもない・・・頭領とは難しいものなのですね」

「当然じゃ、わしもまだまだ先代にはかなわない。人間一生修行じゃ。

 もちろん我ら一族も過去においては、

 血筋だけ技術だけで頭領になったこともあったが、

 その時は必ず一族の運命が暗転しておる」

「それほどの重責を爺様は負うているように見えませんでした」

「それが頭領じゃ。ただし頭領には正義が絶対に必要な条件じゃ」

「爺様ってやはりすごかったのですね・・・私では駄目かもしれません」

「駄目だからと言って修行を止めるお前ではなかろう?」

「ええ、修行は一生続けます」

「ならそれでいい。

 頭領なぞならずとも一族に世の中に必要な人間になればいい。

 お前はお前の正義を貫けばいい」

「はい、今、気づきました。世の中の困った人を助ける仕事を考えます」

「それでいい、目一杯考えて見なさい。必ず道は見つかる」

 

「それはそうと館林百合さんだったか?お前好きなのか?」

「は?は・・・はい。とても好きです」

「お前も次期頭領候補の身、無責任なことはしていないな?」

「はい、それは気をつけています」

「ならばいい。でもキスくらいはしたのか?」

「えー?なんで・・・いや、そんなことはありません」

「隠さなくていい、いまどきキスくらいは何も大したことはない。

 婆さんからの話ではとても可愛いお嬢さんだそうだな」

「は、はい。笑顔を見ているだけで満足と言おうか・・・」

「今まで女には一切興味を示さなかったお前が

 好きになったお嬢さんなら大切にしろ」

「いいですか?このまま好きになっても」

「ただし、百合さんを泣かすことはまかりならん。

 どんな事があっても、たとえお前が死ぬようなことがあっても守れよ」

「???・・・はい、そのつもりでいますが」

「ならいい。今度は百合さんを連れておいで」

「えっ?爺様、よろしいのですか?桐生本家に連れてきて」

「もしかしたら次期頭領かもしれない

 お前の嫁になるかもしれないお嬢さんだぞ。

 わしもそのお嬢さんと一緒にご飯を食べたいじゃないか」

「爺様、ただ若い可愛い子とご飯食べたいだけじゃないのですか?」

「婆さんには内緒だぞ。これは約束だ」

「はいはい、わかりました。

 ちょうど彼女も来たがっていたので、今度連れてきます」

翔は、以前の婆さん同様爺さんの言葉にも腑に落ちないものを感じたが、

ただそのときは、百合との交際を認められて舞い上がって深くは考えなかった。

(つづく)